2004/11/07 「目を上げて」 創世記 13:1〜18  (MP3)   
 永眠者記念(--後ろ向きの日ではなく、前向きの日--雲に囲まれている日。--証人の雲が、「ハレルヤ」と叫んで、「素晴らしいぞ、だから、こちらは心配するな。お前たち、今、地上で、しっかり歩め」と言ってくれていることを思い起こして、彼らと一緒に神を賛美--それが、永眠者記念のとても大事な意味--) 
 ジェームズ・R・マグロー牧師(--「グラウンド・ゼロからの祈り」、日本基督教団出版局、2004年8月20日、初版より--9・11テロ直後より、あの惨劇の中で、神のみこころは何であったかを問いつつ、心と体に傷を負った人々の癒しを求める。--その後全米を覆った報復を叫ぶ声とは一線を画し、あくまで世界と神に対して心が開かれた祈り。「神さま、私たちは国家としてまた個人として、あまりに頻繁に、他者を犠牲にすることで自分たちの楽しみにふけってきました。もっと分かち合えたはずの資源を見境もなく消費し、他者の生活、希望、夢にどんな結果をもたらすかを考えもせずに、ただ自己の利益を追求していました。他の人、他の民族、ほかの国家を受け入れ、思いやり、迎え入れようとはしないまま、個人や国家の利益を優先させることに自ら『免罪符』を与えてきました。」--「死の苦しみがいまだ重苦しくのしかかり、すぐそこのグラウンド・ゼロでの遺体の数が、今も膨大に増え続けているこの年においては、この日を、私たちが特別に覚える日とさせてください」--「今なお、五感を打ちのめすあの黒く、厚く、息苦しい煙の元に、悪が広くはびこっていることを、9月11日の出来事によって私たちは知りました。--けれども今週は、どうか同じこの煙を、先達である神の証人たち、すなわち、信仰のうちに人生を全うし、今はあなたの元で永遠の命に生きる人々の群れが厚い雲となって私たちを今も覆っていることを再確認する手がかりとしてください。そして、その手がかりを、命が燃え尽き、なすべき仕事が終わったとき、私たちもまたその群れに加わるのだという、最終的な目的と約束の場所としてください。」--)
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2004/11/14 「毎日のお約束」 申命記 18:15〜22  (MP3)   
 栗栖晶”くりすあきら(--天才ひらがな詩人-- 知的障害・肢体不自由・脳性麻痺・腎臓障害--NHKハート展に入選した詩「ぼくは親戚の恥なんだって」--)
 栗栖晶”くりすあきら”&たくき よしみつ(--「ありがとうの詩」ポプラ社--ありがとう、ありがとうといわれたらしあわせになります でも ありがとうはなかなかいうてもらいません しんせつにせんというてもらえません どりょくせんというてもらえません ありがとうはしんどいことなのです だからぼくはしんせつにしてもらったらすぐありがとうということにしました ぼくのためにどりょくしてくれたんじゃけんありがとうといいます ありがとうはしあわせのあいさつです--)

2004/11/21 「王が先頭だ」 マタイ 25:31〜46  (MP3)   
 キリスト(--油注がれた者"神に代わって仕事をするもの-王-祭司-預言者"--)
 王の職務(--正しい裁き"審判"--)
 最後の審判(--洗礼を受け正しく生きたことが条件ではない--)
 呪われた者たち(--主よ,いつ,私たちはしませんでしたか-自分たちは十分に良いことをしたと思い込んでいる人--)
 小さくされた者たちへの思い(--飢えたものを食べさせる--乾いたときに飲ませ--裸の時に着せ--病気の時に見舞--社会からはじき出された者の友となる--)
 無関心なこと(--罪--) 信仰(--神様は私たちを愛してくださっているという共有の思いをもつこと--できるならば少しでも誰かにつかえていきたい--)
 晴佐久昌英神父(--ルルドの携帯電話--)

2004/11/28 「おいでください」 イザヤ 2:1〜5  (MP3)   
 ハイデッガ(--実存主義哲学者--「人間は生まれた直後から、死(終わり)へと定められた命を生きている。」--「しかし、あなたは視点を逆転して、終わり(死)から今を生きなさい」--)
 アドベント(--近づいてくる--おいでになる--終わりから、今を見直す--)
 再臨(--信じていない人は地獄へ行きますよ、信じた人は極楽へ行きますよと。私はそれを脅迫宗教と呼びます--)
 因果応報(-- 悪い結果があるのは悪い原因がある--キリスト教では、因果応報の考え方をいたしません--) 富岡幸一郎先生(-- 関東学院大学教授--「聖書をひらく」、編(あむ)書房-- 信仰は、現在から未来をみるのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということです。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対です。「過去にこういうことがあったから、』自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなってしまう」と、どうしても人間は因果応報論に入りやすいのです。あるいは、自分はこんなによいことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考えます。キリスト教徒にもそれはあると思うのです。………これはほんとうは間違っています。パウロが言うように、将来の視点から現在を見たときには、すべての形の因果応報論から自由にされ、解き放たれるのです。やはり、「将来の栄光」という中に信仰の姿がはっきり映し出されています --)
 究極の平和(--主は、必ず、救いを完成される方です。終わりのときに、必ず平和が作られる--本当の希望を持ったときに、人は生きることが出来るのです--決して絶望しないで、小さなことを一生懸命に、忠実に実行--)
 ヘンリ・ナウエン(--「静まりから生まれるもの」−信仰生活についての三つの霊想−あめんどう社--血液の癌である白血病に冒されていると分かって、将来の可能性が突然断たれた一人の中年男性がいました。彼のすべての計画は崩れてしまい、すべてのことが変わらざるを得なくなりました。しかし、「わたしはなぜ、こんな目にあわなければならないのか。いったいどんな悪いことをしたので、こんな運命に会うのだろうか」と問うことが少しずつなくなり、その代わりに、「このことの中に、どんな約束が隠されているだろうか」という問いが心の中に生まれてきました-- 彼の反発する気持ちがこの問いに変わったとき、自分が他の癌患者を力づけ、希望を与えることができるようになったことを彼が感じました。また、自分の状態を直視することによって、彼自身の痛みや苦しみを、他者を癒す力の源にすることができたのです。この人は今もなお、多くの司祭や牧師ができることよりはるかに大きなことを、病に苦しむ人たちにしています。そればかりか、それまではまったく知らなかった深い意味で、自分自身の命を再発見したのです)
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