礼拝(--イエス様に対する神様の愛がわたしたちの内にあり、イエス様が、わたしたちと共におられる。このことを確信して、1週の歩みを始める。--)
佐藤博先生(--「名著を入口に聖書に聞く」--キリスト教入門二十一講--マナブックス、2004年9月23日、第1刷--「『出会う』とは文字通りには『出て会う』で、『自分の殻を出る』を意味します。」--前掲書184頁--)
神の愛に出会う(--「出て」、「会う」ことが必要--「出て」というのに、二通りあります。一つは、自分の意思ではなくて、いやおうなしに「出されてしまう」、言ってみれば、思いがけずに降りかかってきた「不幸」や「出来事」です。--ヨセフ物語"創世記45章"--そして、もう一つは、積極的に自分から決断して「出て」行く、ということです。--アブラハム"創世記12章"--)
アブラハム(--落ち着いた豊かな暮らしをしていたのに、そこを「出て」行くことを決断しました。大変な目に遭うのですが、そのことを通して、彼は神の愛に「会い」ました--)
この二つの「出る」について、著者の佐藤先生は、こう言っておられます(--「どちらの場合も神が働いておられますので、自分を誇らない者に、自分の正しさを砕かれる者に変えられます。このように、自分が低くされますと、高い所からの神の愛や、人の良きものが低くされた謙遜な者に下ってきます。それゆえ、神との出会いとは、私たちが努力し、向上して、神に出会うのではなくて、神の方から、低くなった私たちの所に下って、『私はあなたと共にいる』ことを、いろいろな方法で示してくださることです。新約聖書の福音書でのイエスの行動は、この形を証明しています。」--前掲書185頁--)
「出る」(--謙虚にさせられるため--謙虚にならなければ、神の愛との出会いはありえないからです--がんばって神様の愛に出会うのではなく、むしろ落ち込んだり、落胆したり、失望することによってこそ、神の愛に出会えることを肝に銘じましょう--)
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