2004/10/03 「言うことはない」 ローマ 11:33〜36  (MP3)   
 神様への応答(--「主よ、憐れみたまえ」この気持ちをいつも、いつも、失わないことが大事--「私は、愚かですね。」と気づいて、謙遜な姿勢になるときに、人々は、互いに支えあい、守ると言う関係になる--)
 信仰の先生(--飼い犬のチコ” 「言うことはない」という生き方”--)
 藤木正三先生(--「小さいものになる」主は「小さな者」、それも、水一杯を飲ませてやることが救いになるほどに「小さな者」を、弟子の名に値するものと考えておられます。弟子は忠実な者とか、謙遜な者とか、情け深い者とかというよりは、もちろん徳において高いにこしたことはないのですが、何よりもまず、「小さな者」であることが求められている者なのです。--野の花は誰に手入れしてもらうこともなく、そして、いつ、踏み潰されるかもしれないのに、その、はかなさの中で美しく咲いています。その命の健気さに注意して生きるのが「小さな者」です。--「この光にふれたら」日本基督教団出版局、1996年5月25日--)
  命の健気さ(--誰にも見られることのないような花が、いつ踏み潰されるか分からない花が、精一杯生きています--命の健気さに心動かされる者が小さな者なのです。これをしなければ、アレが足りないとかで悩まないでください--)
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「分類キーワード(ゆだねる)」

2004/10/10 「保証書付き」 コリント2 11:51〜10  (MP3)   
 保証(--聖霊が永遠の住みかを保証する--)
 天幕(--仮の住まい--)
 信仰者(--死んだらどうなるのかなどの不安がない--住みかが用意されている--生かされている限り神が喜ぶことをする--一人で孤立して生きていない--楽観主義者--恐怖心がないわけではないあるからこそ危ないことを避ける--恐怖心があるからこそ原点に戻れる--)
 ストーン宣教師(--底抜けに明るかったユーモアを絶やさなかった"春風駘蕩"--洞爺丸が台風に遭遇し沈没したとき自分のライフジャケットを他の人に譲って自分はなくなった"52才"--)

2004/10/17 「イエスさまの遺言」 ヨハネ 17:13〜26  (MP3)   
 礼拝(--イエス様に対する神様の愛がわたしたちの内にあり、イエス様が、わたしたちと共におられる。このことを確信して、1週の歩みを始める。--)
 佐藤博先生(--「名著を入口に聖書に聞く」--キリスト教入門二十一講--マナブックス、2004年9月23日、第1刷--「『出会う』とは文字通りには『出て会う』で、『自分の殻を出る』を意味します。」--前掲書184頁--)
 神の愛に出会う(--「出て」、「会う」ことが必要--「出て」というのに、二通りあります。一つは、自分の意思ではなくて、いやおうなしに「出されてしまう」、言ってみれば、思いがけずに降りかかってきた「不幸」や「出来事」です。--ヨセフ物語"創世記45章"--そして、もう一つは、積極的に自分から決断して「出て」行く、ということです。--アブラハム"創世記12章"--)
 アブラハム(--落ち着いた豊かな暮らしをしていたのに、そこを「出て」行くことを決断しました。大変な目に遭うのですが、そのことを通して、彼は神の愛に「会い」ました--)
 この二つの「出る」について、著者の佐藤先生は、こう言っておられます(--「どちらの場合も神が働いておられますので、自分を誇らない者に、自分の正しさを砕かれる者に変えられます。このように、自分が低くされますと、高い所からの神の愛や、人の良きものが低くされた謙遜な者に下ってきます。それゆえ、神との出会いとは、私たちが努力し、向上して、神に出会うのではなくて、神の方から、低くなった私たちの所に下って、『私はあなたと共にいる』ことを、いろいろな方法で示してくださることです。新約聖書の福音書でのイエスの行動は、この形を証明しています。」--前掲書185頁--)
 「出る」(--謙虚にさせられるため--謙虚にならなければ、神の愛との出会いはありえないからです--がんばって神様の愛に出会うのではなく、むしろ落ち込んだり、落胆したり、失望することによってこそ、神の愛に出会えることを肝に銘じましょう--)
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「分類キーワード(不安なとき)」

2004/10/24 「生まれる前から」 箴言 8:1、22〜31  (MP3)   
 知恵(--賛美し喜ぶためにある--)
 救い(--条件なし--楽観主義でよい--)
 杉原千畝(--ギリシャ正教信者--外交官--ナチスに迫害されているユダヤ人に渡航ビザを発給し帰国後職を解かれた--6千人救った--)

2004/10/31 「見当違いだよ」 イザヤ 44: 6〜17  (MP3)   
 澄田新"すみたしん"牧師(--関西学院高等部先生--「神に呼ばれて―召命から献身へ」 日本基督教団出版部--イエスキリストはその当時の弟子たちや民衆から大変な勘違いをされた方です。その勘違いをされた生涯の中でイエスは多くの人々と出会い、その人の生き方を変えられた方です。高校に入ったころから牧師だけには決してならないと心に固く決めていた牧師の息子である私もいつの間にか変えられていった一人の人間です--中森幾之進牧師"山谷で伝道した"から「上に上ることばかり考えていたらダメだよ」と言われた”これがきっかけで牧師になった”--)
 罪を犯す(--アダムとエバ--神様の命令を無視して食べてしまったという道徳的な、つまり悪いことをしたというように受け取ることがキリスト教の中で一般的にとらえられることが多いから、大半のクリスチャンは自分は悪いことをしていないから罪はないという誤解”偽善者”が生まれる--罪のとらえ方が間違っている--)
 罪(--的を射外す--善悪の判断が罪を犯す--善悪の判断は神様から見たら相対的なものである"人間は見当違いの判断をする"--神様に対して見当違いの思いを持つ--)
 善(--自分が善であるという立場に立つと対立する相手は悪となる--自分が悪い側に立つことがある--)   自由(--いつでも逆のことを考えることができる--悲惨さの中にも栄光がある--) 


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