石川和夫牧師(1945年8月6日--夜通しの空襲のために家を焼け出され、学校の本館の宿直室でうめいていた--学生は軍需工場に働きに出されていた--予科練に一番先に行きますと手を上げて志願すると、みんなが続いてどっと志願しました。私はお国のためにいいことしたと思っていた。--校長先生が私に会いに来られ--石川君、お国に奉公をするということはみんなが軍人になることだけじゃないぞ、君はせっかく持っている知識、学力を生かして、高等学校、大學と行って、その知識を生かして、御国のために働きなさいと懇々と言われ--「分かりました」と志願を取り消した--一緒に出していた連中もみんな引っ込めました--本当の反戦平和というのはやはり一人を思う”愛”から出発します--)
愛(--どちらが‘正しい’とか‘悪い’とかいうレベルだったら、力に対して、力で対抗しようというようになります。平和を作り出すということの根底は”愛”なのだという事をもう一度確かめたいと思います--)
永遠の命に至る食べ物(--「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」--)
晴佐久正英神父(--私たちの信仰の基本は、何も出来ない、一方的に親から愛を受けるだけの赤ちゃんに帰ること。『子どものようになりなさい』といったイエスの教えどおりに、赤ちゃんになって親の前で全面的な信頼の泣き声を上げること、これが信仰の基本だ--それで言うならば、御聖体とは(カトリックでは聖餐式のことを聖体拝領といいます。)お母さんのお乳でしょう。自分自身を与え、飲ませるのがお母さんのお乳ですからね。自分自身のすべてを子どもに与えるために、自分自身の愛を味わってもらおうとしてお乳を口に含ませる。赤ちゃんはそれをただただ頂くだけ。これが『親の愛の御聖体』ということではないでしょうか。子どもの方はただフギャーと泣いて、これを飲むだけ、頂くだけです。親は子供が頼もうと頼むまいと、子どもがいい子だろうと悪い子だろうと、ただただ自分のお乳を含ませて育てている。しかも、一日3回4回、何度でもです。それで私たちは神の命を自分の体の一部に受けて本当に生きるものとなってきたのです。これからもこのお乳をしっかりと頂きましょう。泣いて、騒いでですね。」--)
聖餐式(--「神様の“愛”を頂いている私を食べなさい」とおっしゃってくださっています。イエス様を食べるのに条件はありません、お前がどのような子であるか、関係ないよということです。「私の命をあげる」とおっしゃってくださっています。その“愛”を無条件で頂きます--)
プロテスタント教会の礼拝は、説教中心でした(--誰それ牧師--言葉中心の礼拝--“こうしないといけない”、“こういうのはよくない”、“こうすべきである”、“こうすべきでない”というような説教になってしまいます--自分を“裁き”、そして、無意識に人を“裁く”のです--他者を寄せ付けない、とても冷たい雰囲気が流れてしまいます--)
“愛”(--理屈ではなくて感性なのです。パンを頂くということを通して、その行為を通して、私たちがイエス様の“愛”を、父なる神の“愛”を感じ取ること、それが、とても大事になってきます--)
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