小塩トシ子(フェリス女学院大学教授--「信徒の友」--「こころにひびくことば」--八木重吉の詩を紹介「風に鳴る琴」--「重吉はここで日本の琴をイメージしていたのだろうか。『素朴な琴』というのだから、わたしは『風琴』だろうと思う。風が吹くと鳴りだす琴、--神の息吹で鳴りだす自分と置き換えて受け止めていたのでしょうか--)
聖霊は神の親心(--晴佐久昌英神父の三位一体論--「父」--天地創造の全能の神さま--「子」この神さまから生まれたキリスト--「聖霊」--「親から溢れくる親心」--独り子であるイエスはこの親と子と親心、すなわち三位一体の交わりを実際に常に体験していたし、この交わりのうちに全ての人を招き入れようとして命を捧げた。弟子たちはこの神の独り子を信じて、自分たちも同じまことの親から生まれ、親心のうちに生きている神の子であることに目覚めていく。その目覚めは弟子たちなりの「父と子と聖霊」の体験であり、その体験こそがキリストの教会の原体験である--まことの親に気づいてその親心に目覚める時は、ある意味で神の子としての新しい誕生と言える。洗礼とはその誕生式であり、その式が「父と子と聖霊のみ名によって」授けられるのは当然のことと言えよう--カトリック高幡教会発行、「あゆみ」晴佐久昌英神父送別号、「父と子と聖霊のみ名によって」--)
すべての人はすでに神の子(--神がお造りになっているからです。その意味では、誰が救われる資格があり、誰には無い、なんてことは言えないことなのです--)
乳飲み子までも連れて来た(--人々から見捨てられたり、軽蔑されたりしている人たちに寄り添うイエス--乳飲み子は、まさに力が入っていません--おなかがすいたり、お尻が汚れれば、わあわあ泣き、気持ちよければ、にこにこしています。どんな人を見ても分け隔てしません。乳飲み子は存在そのもので愛を伝えています。どんないかつい男でも乳飲み子の前では、「かわいいねえ」と顔をくしゃくしゃにして、その子を覗き込みます--親の懐で、ゆだねきっている、その状態が、「神の国」なのです。そのようになることが「新しく生まれる」ということ、「霊によって生まれる」ということです--)
八木重吉(--父よ ふしぎなる 聖霊のちからよ われにあるごとく 父にあるごとく ふしぎなるちからよ われを 父につれゆくめぐみよ わが魂のうちに芽ざしたる ただひとつ 罪なき芽よ われ ちち とよぶ われをよぶこえもあり そのこえのふところよりながむれば きりすとの奇蹟のやすやすと ありがたさ 父を呼び続けよう! ただ よぶ ばかりなり、 いのることばさへしらざりしゆえ ちのみごのははをよぼうごとく おんちちうへさま おんちちうへさま ととなへたれば、 ふしぎなり もったいなし おんちちはわれをみたまへり--)
信仰(--乳飲み子のように父を呼び続けること--)
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