ティツィアーノ( ≪ ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) ≫ 1512 | 108 x 122 cm | ピッティ美術館、フィレンツェ--イエスの左手には、鍬のようなものが握られています--右足、釘の跡があります--)
マグダラのマリア(--七つの悪霊をイエスによって追い出された--苦しい、悲しみの多い暮らしをしていたと思われる--新しい生き方を与えられ、イエスは生き甲斐そのものでした--イエスの遺体の後始末もやりました--)
ノリ・メ・タンゲレ(--「われに触れるな」強い拒絶の感じ、「私にすがりつくのはよしなさい」受け入れつつやんわり断っています。やはり、イエスとマリアが愛の関係にあるのかな、と思わせなくもない表現です--) 後ろに立つイエス(--イエスを園丁と錯覚をした--イエスは彼女の後ろに居た--イエスだとは気がつかなかった--イエスが、マリアと呼ばれた。これが生前のイエスとマグダラのマリアとの関係におけるあのイエスの呼び方そのものだったので、マリアは仰天します--マリアは、思わずいつものように「ラボニ」と答えます--イエスにすがりつこうとしました。これに対してイエスは、「ノリ・メ・タンゲレ(わたしに触るのはよしなさい)」と言われました。これは単に、「もう私は復活して、霊の体になったのだから、触ってはいけない」というのだったら、イエスの復活を信じないトマスに「私の脇を触ってごらん」と触らせておられるのです。だから単に「体に触っちゃいけない」という意味ではないようです--「考え方を切り替えなさい」と言っておられるのではないかと受け止めます--イエスは生ける神の子だから、死ぬはずがない。それなのに、なぜ死体を捜すのか、ということです--神様を見ている、イエス様を見ているのに、自分の思いに、あるいは自分の判断に囚われていて、こうでなければいけないとか、あるいはこうであるに違いないとかの思いに囚われているときに、見えなくなります-- 「マリア、分かったかい」、イエスのこの言い方は、きっと優しい言い方だったと思います。「われに触れるな」と、ばしっと断るのではなくて、「よしなさい」という言い方の中で、「これから違うのだぞ、だけど、わたしの生きているように、あなたも生きるようになるよ」と--)
八木重吉の詩(--きりすと われによみがえれば よみがえりにあたいするもの 全ていのちをふきかえしゆくなり うらぶれはてしわれなりしかど あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう--)
消えることのないダイヤモンド(--どんな人のどの命もすべてダイヤモンド--人間の価値観で言えば、八木重吉の生涯は辛くてかわいそうなもの、二十九歳で死んだということは、ほんとになんだったんだという人生かもしれない。しかし、天から見たときには、その命も限りないダイヤモンドの輝きなんだということです。そのように見る目が、私たちには与えられています。それが復活の命なのだと思うのです--)
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