2004/04/04 「この道しか」 ヨハネ 20:1〜18  (MP3)   
 真理(--神に従うことである--)
 榎本栄次(--神学校に落ちたとき”神様ありがとうございました。今日このときを私の牧師になるときの入学式にしてください。人の悲しみや痛みのわかる牧師にしてください”と祈った--三浦綾子さんから”先生は失敗を繰り返しながら上に導かれている。神様にえこひいきされているのですね”といわれた--思い通りにいかぬことばかり。思い通りにならなくてよかった。思い通りになっていたら大変だった。神様の御心が一番--) 

2004/04/11 「ノリ・メ・タンゲレ」 ヨハネ 18:28〜41  (MP3)   
 
ティツィアーノ( ≪ ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) ≫ 1512 | 108 x 122 cm | ピッティ美術館、フィレンツェ--イエスの左手には、鍬のようなものが握られています--右足、釘の跡があります--)



 マグダラのマリア(--七つの悪霊をイエスによって追い出された--苦しい、悲しみの多い暮らしをしていたと思われる--新しい生き方を与えられ、イエスは生き甲斐そのものでした--イエスの遺体の後始末もやりました--)
  ノリ・メ・タンゲレ(--「われに触れるな」強い拒絶の感じ、「私にすがりつくのはよしなさい」受け入れつつやんわり断っています。やはり、イエスとマリアが愛の関係にあるのかな、と思わせなくもない表現です--) 後ろに立つイエス(--イエスを園丁と錯覚をした--イエスは彼女の後ろに居た--イエスだとは気がつかなかった--イエスが、マリアと呼ばれた。これが生前のイエスとマグダラのマリアとの関係におけるあのイエスの呼び方そのものだったので、マリアは仰天します--マリアは、思わずいつものように「ラボニ」と答えます--イエスにすがりつこうとしました。これに対してイエスは、「ノリ・メ・タンゲレ(わたしに触るのはよしなさい)」と言われました。これは単に、「もう私は復活して、霊の体になったのだから、触ってはいけない」というのだったら、イエスの復活を信じないトマスに「私の脇を触ってごらん」と触らせておられるのです。だから単に「体に触っちゃいけない」という意味ではないようです--「考え方を切り替えなさい」と言っておられるのではないかと受け止めます--イエスは生ける神の子だから、死ぬはずがない。それなのに、なぜ死体を捜すのか、ということです--神様を見ている、イエス様を見ているのに、自分の思いに、あるいは自分の判断に囚われていて、こうでなければいけないとか、あるいはこうであるに違いないとかの思いに囚われているときに、見えなくなります-- 「マリア、分かったかい」、イエスのこの言い方は、きっと優しい言い方だったと思います。「われに触れるな」と、ばしっと断るのではなくて、「よしなさい」という言い方の中で、「これから違うのだぞ、だけど、わたしの生きているように、あなたも生きるようになるよ」と--)
 八木重吉の詩(--きりすと われによみがえれば よみがえりにあたいするもの 全ていのちをふきかえしゆくなり うらぶれはてしわれなりしかど あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう--)
 消えることのないダイヤモンド(--どんな人のどの命もすべてダイヤモンド--人間の価値観で言えば、八木重吉の生涯は辛くてかわいそうなもの、二十九歳で死んだということは、ほんとになんだったんだという人生かもしれない。しかし、天から見たときには、その命も限りないダイヤモンドの輝きなんだということです。そのように見る目が、私たちには与えられています。それが復活の命なのだと思うのです--)
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「分類キーワード(イースター)」

2004/04/18 「戸惑いと恐れの中に」 ヨハネ 20:19〜31  (MP3)   
 シャローム(--やーこんにちわ”あなた方に平和があるように”--裏切った弟子たちを許している--私たちが何度裏切ろうとも硬く鍵をかけてしまった心の中にこの挨拶で現れてくる--)
 聖霊(--弟子たちに息を吹きかけられた--ヨハネにおける聖霊降臨--)
 椎名 麟三(--作家--イエスは本当の自由に生きた具体性なのである--私は復活を信じる”弟子たちの前で魚を食べるイエスに感動した”復活のイエスの賜物をもらった人間は死んでいて生きているという仕方で生き始める--キリスト者は復活者なのである--イエスキリストを信じるものはすっかり救われるかというとそうではないということだ。救われていないし、といって救われてもいるという仕方で生きるのである--人間の苦しみや、悲しみの海の中に投げ込まれていながらも溺れないように首を水の上に出してちゃんと息ができるということなのである。もうだめだと思ったときさえその首をしっかり支えていてくださるのがイエスキリストなのである。だから、わたしは苦しみや、悲しみに対しても十分戦えるのだ。すっかり救われたい方は天国へ行くことだ--) 
              
2004/04/25 「さあ、食事だ」 ヨハネ 21:1〜14  (MP3)   
 渡辺英俊牧師 ”移住労働者と共に生きるネットワーク”(--復活者をキリストとよんでも一向に差し支えないが、かつて歴史の中に生き、十字架に死んだイエスの事件を忘れたところで”キリスト”にさまざまな神学的デコレーションをつけてイエスを覆い隠すのは復活信仰ではないであろう--)
 復活(--キリストの復活ととらえると”神様の復活”となり死ぬはずのない神様が復活したということになりスーパーマンのような存在となりキリスト教が傲慢な宗教”イエス偶像教”になりかねない--イエス”人として生きた”の復活と捉える必要がある--)
 ガリラヤで復活したイエスに会う(--食事をした”聖餐式=礼拝”--)
 礼拝は行くところではなく帰るところ(--共に食事”礼拝”をするところ--)
 晴佐久昌英神父(--聖体拝領はまさに神の無条件なるもてなしの目に見える印なのである--) 


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