2004/01/01 「終わりから始める」 黙示録 21:1〜7  (MP3)   
 星野富弘(--「あなたの手のひら」"年の暮れ"--毎年のことなのに12月が来るとあわただしい気持ちになる。まるで12月いっぱいですべてが終わりになってしまうかのように片づけごとなどをセカセカトやり始めてしまう。しかし、よく考えれば12月で終わるものなど何一つなく。また、新年もその日から新しくなるものなどほとんどないのである。昨日が今日になり今日が明日になるのと変わることなく昨日の続きを今日も続け昨日の失敗を今日やり直す。だからそんな生活に区切りをつけたくて年末年始という仕組みを取り入れたのだろう。もしかしたら人はそうやって人生の大晦日である死の練習を少しづつやっているのかもしれない。--やり残したことがないのだろう草木の年の暮れは静かだ。--立っていても倒れてもここはあなたの手のひら--)
 生かされているということはただの偶然ではない
 黙示録(--迫害にあっていた信者への勇気づけのためのオラトリオ"ミュージカル"--) 終末(--完成の時--)

2004/01/04 「満ちあふれる豊かさ」 ヨハネ 1:14〜18  (MP3)   
 主題(受肉の秘儀”神が人となられた”)
 あけぼの(--対談--「人はどこに希望を見出せるのか」神津 カンナ”こうづ かんな”長倉洋海”ながくら ひろみ”対談--単眼で見てしまうと例えば「世の中は景気が悪いとか世界は大変だ、未来は暗いとか、そういう側面ばかりがクローズアップされがちですが。ちょっと目を転じればそこにも人間は住んでいて、客人を迎え、大声で笑い、一緒に踊る、心も通わせる。そんな一面もある。その二つをあわせ見て初めて物事の実相が見えてくるのではないでしょうか。単眼ではなく、複眼で見れば悲観的なところばかりに沈み込まなくてもいいのかなと思うんですね。」--)
 乳飲み子(--誰かの助け無しには生きられない--自分を完全に投げ出している”愛の極致”--神は布に包まって飼い葉おけに寝ている乳飲み子の姿をとっておられる--)
 ミシェルクォスト神父(--「愛いが地に根付くとき」--あるときあなた方のご主人が「こっちにきて座ってみてよ」といったときにあなた方はどうするでしょうか”いまいぞがしい最中なのにそんなそんなことなんかしていられない”と思うでしょうか--愛というのはわざとしての側面ともう一つの側面があります。相手のために何かをするのではなくその人のために無償でそこにいるということです--自分の生活のある時間そこにいるという無限に濃い密度で相手にささげることなのです--神は力強く支配すると同時に、私たちにその身を投げ出して、さあどうぞと言っておられる方--神は愛のもう一つの大切な側面を乳飲み子という姿で私たちに示された--神の前に自分を差し出すことが”祈り”--)
 愛(--してあげるだけではなく、こちらがありがとうと言う姿勢--イエス様が示された愛--)
 老化(--してあげることが減り、してもらうことが増えることである--神が私たちに与えているチャンスである--ありがとうがたくさんいえることが”愛”--)
 礼拝(--自分をささげる場--)

2004/01/11 「神の子の保証」 ヨハネ 1:35〜51  (MP3)   
 主題(イエスの洗礼)
 神学者、カール・バルトの洗礼論(--洗礼は祈りであるゆえに、またその限りにおいて、同時に極めて謙遜な行為であると共に、極めて勇敢な行為である。あらゆる幻想から自由な極めて冷静な行為であると共に、天を襲うような大胆な行為である--)
 イエス様が洗礼を受けられる(--罪のない神の子が罪の赦しを与える洗礼を受けなければならなかったのか--神の子の保証--)
 知る(--体全体で知る、人格的に、体験的に知る--)
 晴佐久昌英神父(--神父になろうと決心--「僕はこれでいいんだろうか。これから何をしていったらいいんだろうか。デザイナーも難しそうだし、教師への情熱も冷めてきちゃったし、どうしたらいいんだろう」。しまいに「僕は何をしたって無意味なんじゃないだろうか」「しょせんは何もかも無駄なんじゃないか」……そんな状況の中で僕は無意識のうちに神に向かって必死に手を伸ばしていたんだとおもうんですよね。心の手を。それで、言うなれば、握っちゃったんですよ。神様のほうから伸ばしてきている手を。それはもう、実際には生まれた時から伸ばしてくれていて、生まれた時から支えていて、生まれた時から導いてくださっていた手なんでしょうけれども、こっちからは本気で手を伸ばしたことはなかったんでしょうね。ぎゅっとその時は神様の手を握ったっていうような、つながった感じがあったのです。その時に僕は突然決心しました。「そうだ、信仰をやればいいんだ」と。強烈なインスピレーションでした。……実際、自分が「じゃあこれからどうやって生きていこうか、教師になるのか、デザイナーになるのか」なんていう時に、その選択の条件に信仰のことは別に入ってこなかったわけですから。そんな時に、「そうだ、結局自分には信仰しかない。キリスト教を本気でやろう。それが自分の一番やりたかったこと、自分が一番喜べることだ」。あの時いきなりそう気づいた。それと同時にですね、「そうだ、それなら神父になろう」と思った。不思議なことですね。だって僕はそれまでただの一度も神父になろうなんて考えたこともなかったんですよ。自分の可能性としてホントにかけらも想像したことがなかった--洗礼とは、神様と手を握ることだ--イエスだって、そうなんです。歩き出したら大変だっていうこと、よく分かっていますから。二十代ずっとイエスは「どうしようか。自分は神の子としてどのように生きていけばいいのだろうか。天の父は何を望んでおられるのだろうか」、ずっと、そんなふうに考えていたはずです。けれども三十歳になった頃、イエスは洗礼を受けて出発いたしました。荒れ野に向けて出発したんです。イエスもそうだった。しっかり手を伸ばして神様からの手を握りしめた瞬間があったのです。聖書によれば、その時「天が開けて、『これは私の愛する子。私の心にかなうもの』という声がした」。イエスにとってこれは生涯忘れられない出発の日。神様としっかり手を握って荒れ野に出発していく。これがイエスの洗礼の瞬間ですね。皆さんもその洗礼を受けなければなりません--)
 神様の手を握る(--あなたは神の子なのだよ、という証明書に神様が判をついたことなのです--何があっても私の子なのだよ、と神様がいつも言ってくださっているのです--洗礼は出発なのです--「これは私の愛する子、私の心に適う者」と保証されていることを大事にして、日々の荒れ野に進んで行こうではありませんか--)
詳しくはここをご覧ください

「分類キーワード(洗礼)」

2004/01/18 「選ばれている」 ヨハネ 1:29〜34  (MP3)   
 死海写本(--200年前のヘブライ語旧約聖書と聖書関連の文書写本--) 
 ヨハネ福音書(--ユダヤ教がキリスト教徒を排除するようになった。これに対しイエスは神の子であることを宣言し信徒たちを安心させる目的で書かれた--) 何を求めているか(--来なさいそうすればわかる--行動を起こせばわかる--)
 加賀 乙彦”かが おとひこ”(--日本の小説家、精神科医--カトリック信者--洗礼--「突然質問することがなくなったのだ、と、曇っていた空が裂けて一条の日差しが庭をぱっと明るくした。何か透き通った光が心の奥底まで照らし出す感覚があり、心が風に乗って漂い、体も軽くなってふわふわと浮き上がるような気がして喜びが私の心身に満ちた。--知識が飛び去り一気に信仰の世界に入ったのだ。知識にはいつも疑問がつき物である。--信仰の世界には疑問はない。それはイエスキリストを百パーセント信じて、その十字架と復活の生涯に自分を参加させたいという内なる衝動であり喜びであった--おびただしい知識をつんで得られない--知識という疑いを含む心の作用が信仰の障害になる--わたしが百パーセント信じるという一歩を踏み出したときには自負は少しもなく、自分はだめな人間、罪深い人間だという謙虚と、それにともなう非常な、かつて経験したことのない喜びだけがあった。はっきりいおう”知識なんかどうでもよくなったのだ”その境地をわたしは、そして妻も瞬時に感得したのである。洗礼を受けるというのはたんなる形式的な儀礼ではない、それはキリスト教という山にわけいる第一歩の行為なのである。してみなさい。行為、知識ではない体によって行動を起こすことである。よく人は信仰を持つというがこれは的確な表現ではない、信仰に入るものなのだ。すると聖書の読み方、特に新約聖書の読み方が一変する。イエスは”あなたの信仰があなたを救った”という。イエスの教えはまず信じることが先にあって、そのあとで良きこと”福音”が訪れるということである。」--)
 礼拝(--自分体で口を動かし、体を動かす--イエスに出会い礼拝から派遣される--)
 星野富広(--作 詩--どんなときにもかみさまにあいされている そうおもっている てをのばせばとどくところ よべばきこえるところ ねむれないよるは まくらのなかにあなたがいる--)

2004/01/25 「天国は宴会だ」 ヨハネ 2:1〜11  (MP3)   
 神の国(--神と人が結びつく宴会だ--)
 カナでの婚姻(--招かれた客はおいしいぶどう酒がどこから出てきたのか知らなかった--私たちはイエス様から命じられたことをする召使の役割であり人知れず人を楽しませる役割がある--)
 養老 孟司”ようろうたけし”(「バカの壁」新潮新書--人生の意味を考える--他人が人生の意味を考える手伝い”イエス様がなさったように”を目立たないところでする”いきててよかったな”--)
 外谷育子”とやいくこ”(--病弱でみんなに迷惑をかけることをしんぱいしていたところ”病気をするとやまい上手になるんですよ”といわれた--やまい上手の死にべた--教団教師になるときにこういわれた”優れた働きを他の人はするかもしれない、しかし神があなたのためにそなえおいている恵がある。かがんで、骨惜しみなく集め続けなさい”といわれた。--やまい上手になって集め続けていこう、その恵に揺さぶられてイエスの一生に起こった真実を伝えて行きたい--)


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