2004/01/11
「神の子の保証」 ヨハネ 1:35〜51
(MP3)
主題(イエスの洗礼)
神学者、カール・バルトの洗礼論(--洗礼は祈りであるゆえに、またその限りにおいて、同時に極めて謙遜な行為であると共に、極めて勇敢な行為である。あらゆる幻想から自由な極めて冷静な行為であると共に、天を襲うような大胆な行為である--)
イエス様が洗礼を受けられる(--罪のない神の子が罪の赦しを与える洗礼を受けなければならなかったのか--神の子の保証--)
知る(--体全体で知る、人格的に、体験的に知る--)
晴佐久昌英神父(--神父になろうと決心--「僕はこれでいいんだろうか。これから何をしていったらいいんだろうか。デザイナーも難しそうだし、教師への情熱も冷めてきちゃったし、どうしたらいいんだろう」。しまいに「僕は何をしたって無意味なんじゃないだろうか」「しょせんは何もかも無駄なんじゃないか」……そんな状況の中で僕は無意識のうちに神に向かって必死に手を伸ばしていたんだとおもうんですよね。心の手を。それで、言うなれば、握っちゃったんですよ。神様のほうから伸ばしてきている手を。それはもう、実際には生まれた時から伸ばしてくれていて、生まれた時から支えていて、生まれた時から導いてくださっていた手なんでしょうけれども、こっちからは本気で手を伸ばしたことはなかったんでしょうね。ぎゅっとその時は神様の手を握ったっていうような、つながった感じがあったのです。その時に僕は突然決心しました。「そうだ、信仰をやればいいんだ」と。強烈なインスピレーションでした。……実際、自分が「じゃあこれからどうやって生きていこうか、教師になるのか、デザイナーになるのか」なんていう時に、その選択の条件に信仰のことは別に入ってこなかったわけですから。そんな時に、「そうだ、結局自分には信仰しかない。キリスト教を本気でやろう。それが自分の一番やりたかったこと、自分が一番喜べることだ」。あの時いきなりそう気づいた。それと同時にですね、「そうだ、それなら神父になろう」と思った。不思議なことですね。だって僕はそれまでただの一度も神父になろうなんて考えたこともなかったんですよ。自分の可能性としてホントにかけらも想像したことがなかった--洗礼とは、神様と手を握ることだ--イエスだって、そうなんです。歩き出したら大変だっていうこと、よく分かっていますから。二十代ずっとイエスは「どうしようか。自分は神の子としてどのように生きていけばいいのだろうか。天の父は何を望んでおられるのだろうか」、ずっと、そんなふうに考えていたはずです。けれども三十歳になった頃、イエスは洗礼を受けて出発いたしました。荒れ野に向けて出発したんです。イエスもそうだった。しっかり手を伸ばして神様からの手を握りしめた瞬間があったのです。聖書によれば、その時「天が開けて、『これは私の愛する子。私の心にかなうもの』という声がした」。イエスにとってこれは生涯忘れられない出発の日。神様としっかり手を握って荒れ野に出発していく。これがイエスの洗礼の瞬間ですね。皆さんもその洗礼を受けなければなりません--)
神様の手を握る(--あなたは神の子なのだよ、という証明書に神様が判をついたことなのです--何があっても私の子なのだよ、と神様がいつも言ってくださっているのです--洗礼は出発なのです--「これは私の愛する子、私の心に適う者」と保証されていることを大事にして、日々の荒れ野に進んで行こうではありませんか--)
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