2003/10/05 「大きな利得の道」 ルカ 16:1〜13  (MP3)   
 主題(世の富”不正な富を用いて自分のために友を作る”)
 人間は一人で死を迎える(--そのとき頼りになるものは何か--不正な管理人は死後のことを考えた”イエスはそのことをほめた”--)
 富(--不正にまみれているように見える--聖書約は魔物を富と約している--イエスはその富の使い方が大事だといっている--ほどこしをしなさい”人のために使う”--)
 宗教を信心して儲ける(--自分の今の状況を感謝できる--豊かな気持ちになれる--)
 ニコルさんの話(--NHK放送「C.W.ニコル・アファンの森から考える」--屋久島の自然は世界一--黒姫の荒地を買い続け森つくりに励んだ--川の大切さを強調--自然の中の一員--森を作ったのはお魚のサケだ--森の中で倒れた木もそれなりの役目がある--人間は後のことを考えていない--われわれは死んだら何を残すのか--お金だけですか--森つくりは未来を信じることだ--)
 私は礼拝を徹底して大事にした(--何を残せなくてもこのことを伝えられる--生きてて良かった--)

2003/10/12 「無関心の罪」 ルカ 16:19〜31  (MP3)   
 高度経済成長(--バブルの時代--「象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり」とても幸せそうに見える図--アモスは「災いだ」と言った--自分たちの国が滅びるかもしれないのに、のんきにしている--貧しいものを全く無視している--貧しいものが、更に、貧しくなるように、足蹴にして、彼らを踏み台にして自分たちが儲けている--創り主である神様が、そういう無視されている人たちのことを、とても心配していらっしゃる--誰か、あの者たちを助ける者はいないのか--)
 金持ちとラザロ(--毎日贅沢に遊び暮らしていたという彼の家の門前に、ラザロという、できものだらけの貧しい人が横たわっていた。この人は、せめてこの金持ちの家のそばにいると残り物でも食べていけるんじゃないか、そういう情けない思いでそこにいた。しかも、犬もやってきては、そのできものを舐めた、と書いてある--全身にできものができた上に、犬に舐められて、それを追い返すこともできないほどにみじめだったというわけです--)
 死後は、信仰と関係ない?(--亡くなった時に、ラザロはアブラハムの懐にいて、金持ちは黄泉の熱い火の中に置かれていた--「無関心の罪」--金持ちは特別悪いことをしたわけではない--ラザロは信仰があったのか、というと何もそのことについては書いていない--神様はラザロを天国に入れてくださった--)
 信仰を持つ(--神様のその愛に触れて、「わかりました!」と言って、神様の手助けをする--)
 最大の罪(--犬養道子「人間の大地」--地球での貧富の差の問題告発している--大事なことが報道されていない--マスコミの責任--基準が甘い--世界中の危機、あるいは人々の貧困ということについて、無関心でいてはいけない、というスタンダードに立たないといけないのだけれど、視聴率を取る為に、ということだけで、ニュースを選んでいるようにも見えます。だから、私たちがそういう中に住んでいる時に、本当に神経を研ぎ澄まして、いなければ、とんでもないと、神様にお叱りをいただくことになるのではないかと思うのです--)

「分類キーワード(不条理)」

2003/10/19 「信仰の完成者」 ルカ 16:1〜13  (MP3)   
 主題(天国に市民権を持つ者) 
  クリスチャンだけの特権(御言葉を聞いて、ふさわしい行いをして、条件があった)
 全ての人に、天国の市民権(--受け止めていない--知らない”生きている間が一番大切、死んだら全て終わり、という考え方になってしまう--利己主義となる--)
 信仰の完成者(信仰を持って、成功した人もいれば、無残な死に方をした人もいる--「ところで、この人たちはすべてその信仰のゆえに神に認められながらも約束されたものを手に入れませんでした。」--イエス・キリストがキリスト以前に亡くなった人たちにおいても救い主なのだ--)
 「葉っぱのフレディ」(レオ バスカーリア作--一つの葉っぱを主人公にして、その葉っぱが秋になって美しく紅葉し、冬になって、枯れて落ちる、これを人生にたとえた--秋になって、紅葉になって、その紅葉もみんなどの葉っぱも全部違う。色も違えば、形もみんな違う。その前に、緑の時の葉っぱが、みんな違うなぁ。だけど、秋になって、強い風が吹いてきて、葉っぱが落ちようになると、寂しくなってきて、これから新しいところに引っ越すんだよ、とダニエルに教えられる。--「そう、経験したことがないからね、だからとても怖いかもしれないけれど、死ぬことっていうのは、変わることの一つなんだよ。」--ダニエルが落ちる前に、自分は生まれてきて良かったのだろうかと迷っているフレディに、「この命は永遠なんだ」と教えます--一つ一つの命が連鎖して互いに繋がっている。ひとつの死が他の命を生かす。それが、自然の命の連鎖です--)
 天国の証人(--人は役目が違うけれども、神様が意味があってお創りくださった--私たちの命が無駄になるということは決してない--神様が全てを生かして下さっているということを受け止める--最も無意味に死なれたのが、イエス・キリストです。弟子たちに裏切られ、そして、最後に神様に呼びかけても応えもいただけないままで、死んだ。だから、意味があるかないか、ということは、創造者である神の目から見る以外に、誰もほんとうの意味はわからない--)
 晴佐久神父(「天国の証人として」--教会は秘蹟です。神様が特別にご自分の愛と栄光を現されているところです。すなわち、信じるものにとってそこは天国なのです。そして、自ら今ここの天国を生きることで、天国の証人となることこそが司祭の存在意義だと信じているからです--)
 天国(礼拝を通して、礼拝そのものが天国の一端だと受け止めて、私たちも同じように、天国の証人である。--未来でもなくて、今ここにいる、それが天国なんだという思いを常に持ち続けていく--)
詳しくはこちらへ

「分類キーワード(天国)」

                                                                                                         

2003/10/26 「いつも始まり」 創世記 1:15〜20  (MP3)   
 「ことによるとキリスト教とは結局のところ正しいことを行うことを心がけながらより良い人生を送ることである。というように、考えている方がいるかもしれません。しかしそれは本末転倒した考え方です。キリスト教とは私たちが何をすべきか、どのように生きるべきか、ということではありません。何よりも最初に大切なことは神がキリストにおいて何をしてくださったかということです。神がどのような方なのかを最初に知っていなければ、私たちがどのように生きるべきかは、わかりません。ですから、最初に、神の御名は聖なるものである、と口にすることによって、どのように生きるべきかが、私たちに告げられるのです。創造主を知ることから、被造物がどこを目指して歩いていけば良いかが告げられるのです。」(W・H・ウィリモン、S・ハワース「主の祈り」、教団出版局、二〇〇三年一〇月二四日、初版、八九頁) 
 創世記1章(--世界がどのように成立したかを記したものではない。そうではなく、世界と人間の存在の確かさがどこにあるかという、当時の、緊急かつ根源的な問題に答えたのである。創世記1章が深く見つめているのは世界の不確かさである。それは2節に現れる。」--左近淑「混沌への光」、ヨルダン社)
 当時の科学的な認識(--地球が平らで、空が丸かったという認識ですから、これをもって世界がどのようにできたかを示した真理の書だというのは、ひいきの引き倒し、私はそういう聖書の読み方を聖書偶像主義と呼ぶのですが--)
 永遠の命(--永遠の命、無限に生き延びるという意味ではなくて、永遠なる神と常に結びついた命、それは具体的にはどのような生き方になるかというと、今ここに生きる、つまり、常に今、過ぎ去った過去はもう取り戻せない、未来はまだわからない、とすると、今ここに生きるということは、今から始める、常にいつも、始まる--)
 神はご自分にかたどって、人を創造された(--「似せて」とか「かたどって」--私が地上にたてた、私のイメージである--「私の代理として」という意味です--神から委託されたから、我々が何でもできる、我々が決めたことが、全部真理なのだ、となりがちなのですが、そうではな、もっと大事なことは、神が地上に向かってしようとしておられることをおまえたち、頼んだぞ、という神の代理の使命のことを意味している、とアンダーソン教授は言うのです。)
 究極の終わりは死(--終わりではなく、変わることでしかない--)
 ユーモアの源泉(--のゆとりが、ユーモアを生む--) アルフォンス・デーケン教授(「よく生き、よく笑い、よき死と出会う」--ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである--一人のご婦人の死”彼女は十一人の子供を立派に育て上げて、重い病にかかられるのですが、その時九十一歳でした。そして、とうとうお医者さんが、もうあと三時間でしょうと言われたので、家族全部が揃いました。昏睡状態のようにみえていたのですが、彼女はカトリックの信者だったので、そこにも司祭が来ていました。もう、お母さんと話すことはできないけれど、みんなで祈りましょうということになり、みんなで短いミサを捧げました。
それが終わると、九十一歳のおばあさんが、急に目を開けて、 「私のために祈ってくれてありがとう。ところで、ウイスキーを1杯飲みたいのだけど。」  みんなびっくりしました。大体この方は、お酒なんて飲んだことがない、飲めない方だったのですが、ウイスキーを一杯飲みたいのだけど、と言う。それで、子供の一人が最後だからと思って、グラスにウイスキーを持ってくると、一口ぐっと飲んで、「ぬるいから、少し氷入れてちょうだい」と言ったので、慌てて、氷を入れるとお母さんは、それを「おいしいわ」と言って、全部飲んでしまった。その次にまた、「タバコが吸いたいわ」と言い出した。それで、たまりかねた長男が、お医者さんが、タバコはいけないと言っていますよ、と言いました。もちろん、彼女は、これまででも吸ったことがないのです。そうすると、お母さんが、 「死ぬのは、お医者さんじゃなくて、私ですよ、タバコちょうだい」と厳命されたので、また慌てて、タバコを用意して渡しますと、悠々と一服つけて吸った後に、みんなにありがとうと言いました。その後、「天国でまた会いましょう、バイバイ」と言って、横になって、そのまま息を引き取りました。デーケン先生は、こういうふうに注釈を加えています。 「彼女はそれまでに、何度も友達や親戚の葬式に出て、皆が涙を流して悲しむのを見てきました。それで、自分の死によって、子供や孫たちを悲しませるのではなく、明るい雰囲気のコメディを残そうとしたのでしょう。何という美しい愛と思いやりでしょうか。私たちは、人生残りの三時間では、もう何もできないと思い込んでしまいますが、この母親はユーモアによって、子供と孫たちに、生涯忘れられない貴重なプレゼントを残したのです。」(アルフォンス・デーケン「よく生きよく笑いよき死と出会う」、新潮社--)
詳しくはこちらへ

「分類キーワード(優しいとは)」


                                                                                                 ページのトップへ戻る