パウロが威張っているようです(--正直言って、あんまり感動しません--でも、待てよ、示されたパウロの言葉があります--”わたしのうちにあるキリストの真実にかけて言います”がありました--)
パウロの弁明(--パウロのことを悪く言う人たちがいた--パウロは、復活のキリストに任命された、と称したのです--パウロが、本来の使徒を批判し、その教えが間違っているなどと主張したのです--十二使徒から悪く思われても不思議ではありません--)
多種多様な教え(--ユダヤ教とあまり変わらない条件付の福音--)
永山教会誕生の背景(--創立記念礼拝--創立者--四十三歳で、この地上を去った一人の若い牧師の死が出発点--残された方たちにとっては、どうしていいか分からなくなる真暗な絶望的な出来事--敗戦の混乱期にクリスチャンになった人たち--混乱した日本をキリスト教によって復興したい--「神よ、この敗戦国日本に住む私たちを、お救いください。あなたはどこを向いておられるのですか。この苦しみをどう理解せよと仰せられるのですか」牧師婦人野口京子編著「人生涙多けれど」椋の木社、一九八七年七月三〇日、初版、五九頁--京子さんが、故郷の日野に帰った--ゆりのき保育園を開いた--日曜学校が盛んになり、その奉仕者たちが、自分たちの主日礼拝を守るようになって、永山伝道所が開かれ--一九七四年九月一九日で独立教会として認可された--)
野口牧師の祈り(--「この牢獄にも等しい私の生も、神の知り給うところ、すべてみ心のままにお導きください。素直に従わせてください」と心静かに祈れるようになりました。そして、次第に心身の傷は癒されて、また新たな「生きぬく力」が与えられたのでした--信仰による「生きぬく力」、それはあくなき闘志を湧きたたせて勝利を得、自我を拡充し、世の支配者となることを指しているのではありません。まったくその反対です。自我を捨て、キリストの内在によって、パウロの言うように 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」--ガラテヤ二・二〇--この信仰に生きることです--前掲書、五九,六〇頁--)
「キリストの真実」によって生きている信徒(--全身全霊で礼拝を守っている--どの時代が全盛期、どの時代が衰退期と分けて評価してはならない--教会の主は、ご自分の民の滅亡に等しい「バビロン捕囚」をも生かして、旧約聖書を生み出し、復活の信仰を起こされる方だからです。成功、失敗という価値観で歴史を見てはなりません--神が何をなさったかを見いだすことです--わたしたちの内にあるキリストの真実、それが、この教会を支え、私たち一人一人を支えている事を常に心に留めましょう--)
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