2003/01/01 「今やめぐみのとき」 ルカ 5:33〜39  (MP3)   
 今に生きる(--過ぎ去った自分は生きていない--未来の自分はまだわからない--確かなことは今しかない”神の力によって生かされている”--)
 常に新しくなる(--古い習慣”古いワイン”にとらわれない--)
 塩谷直也(--あけぼの”カトリック雑誌”--子供のころの経験--幼稚園時代の近くの火事”お兄さんは火の手に近い鳥小屋で火のこが飛んでくるのもかまわず伝書鳩を助けていた”--”小学生時代。拾った子犬を腕に抱いて泣きながら肩を震わせてスポイトで水を飲ませていた。”--”兄は羊飼いのように命を賭して生き物を助けていた”--イエスはわたしたちのために命を捨てる覚悟をしている。私たち一人ひとりは飼い主イエスに大切にされている--伝書鳩以上に子犬以上に、だったら僕は火事がきても恐れない、だって「主が飼い主」だから--彼は煙で真っ黒になって僕を救い出してくれるだろう--死にかかっても大丈夫、だって彼は「よい羊飼い」だから--涙をぽたぽた落としながら一晩中そばにいてくれるだろう--兄でさえそうしたのだ主にできないはずがあろうか--)

2003/01/05 「すべての人の救い」 ルカ 2:21〜40  (MP3)   
 宗教裁判(--ジャンヌダルクは神を冒涜した罪で処刑された"男装したという理由だったということもあった"--)
 塩谷直也牧師(--習字の時間に自分の習字が侮蔑の対象になったことで習字が嫌いになった--侮蔑"--私たちは神の作品なのだ--兄弟を馬鹿と云う者は最高法院に引き渡される--私たちが誰かにバカというだけでイエスはどうしてこれほど厳しく断罪されるのか--知性の問題ではない。これは愛する作品を笑われて怒りに燃え上がる神の情念の問題なのだ。イエスは神の作品を馬鹿と云われてモーレツに悔しいのだ。イエスは作品を侮辱され傷つき相手をぶち殺さんばかりに怒っているのだ。--あなたは誰かから馬鹿にされた。その時「気にしない気にしないと冷静だった」けれど天上は違う。そこにはあなたが笑われるたびに相手を地獄行きだぞ「このやろー」と問い詰める興奮冷めやらぬイエスがいる。あなたは今日自分で自分を傷つけた。自分の体は自分で蔑んでも構わないと投げやりだった。けれど、天上は違う。そこには、あなたが自分を痛めつけるたびに「やめてくれ」とのたうつ神がいる。あなたが蔑まれることに絶対我慢できない、どうしてもあなたを忘れられない情熱的なあなたの原作者がいらっしゃるんだ。"--)

2003/01/12 「低みからの出発」 ルカ 3:15〜22  (MP3)   
 三浦綾子(--「イエスキリストの生涯」--ところで私は長い間イエスの洗礼に納得がいかなかった。なんとしても不可解であった。私が洗礼を受け涙を流したのはおのが罪の故であった。しかし、神の子にイエスには罪のあろうはずがない。そのイエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受ける。これを一体どう理解したらいいのだろう。イエスに罪があったと解釈する人もあるかもしれない。なぜなら、洗礼は罪の許しを受けるしるしなのだから。が、イエスが宣言されている通りイエスに罪があるはずがない。さて、あるとき三浦はこう言った。キリストの受洗は十字架の一端かもしれない。私ははっと目からうろこが落ちたような気がした。罪なきキリストが十字架に架かったのであれば罪なきキリストが洗礼を受けても不思議はない。そこには私たち人間の計り知れざる神の計らいがあるのであろう。ゆはり、十字架に鍵があるのだと思う。--)
 本田哲郎神父(--洗礼"沈めの式"バプテスマは水面下に全身を沈めて低みから見直される民間儀式であり、穢れを洗い流すというようないわゆる浄、不浄の問題とは関係ないことでした。--)
 さだまさし(--「風に立つライオン」--アフリカに行っている日本人の医師柴田紘一郎が巡回医療に従事している。--手紙"この偉大な自然の中で病と向かい合えば神様について、人について考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれどなにか大切なところで道を間違えたようですね。--診療所に集まる人は病気だけれど少なくとも心は僕よりも健康なのですよ。僕はやはり来てよかったと思っています。つらくないといえばうそになるけれど幸せです。あなたや日本を捨てたわけではなく僕は現在を生きることに思い上がりたくないのです。"--もしも彼が言うように人が助けるのでなく神が助けるというなら、もしかすると彼は天使なのではないかと思うことがある。--命の尊厳と常に対峙しているからからこそ神の領域に挑む不遜さを知っている。--)

2003/01/19 「最初の弟子たち」 ルカ 5:1〜11  (MP3)   
 イエスが漁から帰ってきたペテロの船に乗られた(--帰ってきたときには不漁であった--イエスの言葉に不承不承で従い網を下してみた--大漁であった--)
 人間をとる漁師(--とる”生け捕りにし新しい生き方をさせると訳せる言葉が適用されている”--)
 イエスはご覧になられた(--不漁--落胆--この時が新しい出発点に変えられている--)
 森 一弘(もり かずひろ--カトリック教会東京教区司教--キリスト教は時”とき”を大事にする信仰--時はすべて神の手の中にあって神の目指すところに導かれている”これが聖書が教えていることである”--時の流れのかなたに絶対的な希望を見出しているのが信仰である--)
 聖書が示す神(--時の流れと共に関係する--歴史と共にいる神--信じた人はこのように良くなって、信じない人はだめになるよというのではなくて、生きているとき全体を通してご覧になって”見守って”、その人に最善の状態に導かれる--)
 菊里いつこ(--琉球朝日放送報道部記者「自分の子育て」--小学生の女の子が遅刻が多かった--お母さんも子供のころ遅刻が多かった。遺伝かなと思い子どもに注意ばかりしていたことを反省し、しばらく見守る側に徹することした。途中で親が余計な介入をしなければ自ら問題に気づき解決しようとする能力を持っている。放任でもなく”放任は子供を惑わせる”、無視でもなく”無視は心を殺してしまう”。見守るのである--)
 神が愛である(--神が私たちの日々の歩みを見守っている--一人一人にふさわしいようにと最善に導いてくださる--)

「分類キーワード(愛)」

2003/01/26 「肩書きの超越」 ルカ 4:16〜30  (MP3)   
 主題(宣教の開始)
 愛犬チコのエピソード(--どうするアイフル--)
 ルカ福音書(--イエスは全世界のものである”ユダヤ人だけのものではない”--圧迫されている人”あらゆることにとらわれている”を自由にする--福音は実現している--)
 イエスはだれか(--大工の子ではないか--マリアの子ではないか--ヨセフ”ダビデの系統”の子ではないか”ルカの表現”--イエスを外側についているもので判断するな--) 
 鈴木和夫牧師(「津軽の野づらから」日本基督教団出版局--ラザロの復活--イエスはラザロを覆っていたものではなく彼をほどいてやれと言われた--私たちはなんと付随的なものにがんじがらめに縛られていることでしょう。あたかもそれらによって完全に支配され飲み込まれでもしてしまったかのように、いわく伝統、いわくしきたり等--主体そのものが解放されていなければ空しいのではないか--イエスは私自身を”私”というものを主体として私の主体そのものを解放してくださっているのです。私たちを支配する力はもはや何も存在しないのです。神おひとりと主イエス以外には。真の主体の解放ということこそ主イエスによって果たされた私たちの救いそのものに他ならないのです。主イエスは自由の霊を持って支えられたのです。--)
 当時のユダヤ教(--まず割礼を受け、掟を守らなければ神の民になれないとされた--条件がいっぱいあった--これを守れないものは罪びとと排除された--)
 自分の肩書(--付随的なもので評価されたいと願う--神はそのようなものをご覧になっていない--)
 私たちはそのままでイエスに従う(--外側の様子ではない--) 


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