2002/09/01 「自分の手から放す」 ガラテア 1:1〜10  (MP3)   
主題(生涯の捧げもの) 涼しいところを知っている愛犬”チコ”  救いに条件が付くと守りの姿勢になる 塩谷直也牧師(梅が丘教会 カトリック教会雑誌”あけぼの” 「聖書エッセイ」--教会員が入院し数週間で亡くなられた--見舞いに行ったとき”この悔しさ、無念さをあなたはわかりますかといわれた”--何も言えなかった--手を握り祈るしかなかった--不安な思いで病院を去った--この不安は無意味なものであった--数日後また病院に行った--患者は姿が輝いて見えた--彼から何か光のようなものが発せられているのを感じた、光は私の足元に差し込んでいた--今が一番幸せそうに映った--牧師は彼は神に触れたと感じた--本当の平安を得たのだ--「あなたがたは世の光」であるということを感じた--愛されていることを受け取った人は光り輝く--)

2002/09/08 「おしまず施す」 マルコ 14:1〜9  (MP3)   
主題(奉仕する共同体) 江藤澄賢(えとう ちょうけん 大本山清浄華院”しょうじょうけいん” 「名僧インタビュー」 --四苦八苦は仏教用語--欣不得苦”求めて得られざる苦しみ”--不欣自得”求めずして自ら得る”--あまり求めすぎると今はやりのバブルとなる--誰もが持つ”三煩悩”--抑えられなければ地獄に落ちる--これが仏教の教えだ--忍耐、辛抱とは消極的なものではない--) 情報により掻き立てられる欲望の現代に振り回されている私たち(健康番組に象徴される--あなたにはこれが足りない、こうすればもっとよくなる--) パウロ(--エルサレム教会が貧しいので募金活動した--惜しまず差し出す”神に感謝するから惜しまない”--惜しむ私たちに対する言葉--) 足るを知る 松本実道(まつもとじつどう 奈良西大寺--今の人はほしいものが手に入らなければダメと思ってしまう--ある信者さんが友達を三十年ぶりに訪ねたら半身不随で寝たきりになっていました--その友達が「死んでもいいから自分で風呂に入りたいといった」--大地主であるこの友達がこんなことをいうなんてと感じ--自分が毎日風呂に入れるありがたさに気づいた--) 礼拝に参加できることにまず感謝(--私に足りないというより、まず感謝--これが奉仕の出発点です--) 本田哲郎神父(「小さくされた人への福音」--小さくされた人にわかる言葉で福音を語る--惜しんで少ししか種をまかなければ収穫も少しで、気前よくたっぷり種をまけば収穫もたっぷりだということです--泣き泣きやるとか、強いられてやるとかでなくて、一人一人がこうしようと心に決めた通りにやることです。神は快く差し出す人を大切になさるからです。--すべての点で自立していられ、どんなことも親身にかかわることができるようになるものです。--聖書には次のように書いてあります--彼は懐を空にして乏しい人たちに差し出した。彼の開放をもたらす働きは永遠に続けられる。種まくものに、種と食事のパンを提供される方はあなたたちがまく種を提供し、それをいっぱいに増やしてあなたたちの開放の実りを大きくされます--神への感謝が大きくなるにつれて、それ自体さらに充実して行くものです--自ら神を輝かせます--)

2002/09/15 「キリストのもの」 ヘブライ 9:23〜28  (MP3)   
 野口重光牧師(--43歳で天に召された--「町葬となった牧師」信徒の友--)
 贖う(--買いとる---キリストに買い取られた共同体--私たちはキリストに買い取られた--)
 八木重吉(--キリストのものになってしまえば私の目的て無くなる ただきれいな気持ちで、遊ぶような気持でいればいいのだ--)
 関茂牧師(--キリストに迎えられ、キリストとお会いし、キリストと一つになってしまう。その究極の実現が、キリストの再臨でありました。それを望みつつ今を生きる--重吉の願いはその喜びと幸いを今のものとして念じるところににあった--そしてそれ以外の私の目的はない--) 人生の目的(--遊ぶような気持でいればいい--キリストにお任せしていればいい--)  

2002/09/22 「自分との戦い」 マルコ 14:26〜42  (MP3)   
主題(苦難の共同体--私のすべきことは何なのでしょうか--逃げ出したい気持ちと闘いながら神様にどうぞ御心をしてくださいと互いに支えあって祈る--痛みを共有しようとして祈る--) キリストの苦しみの足りないところ(--苦しいこといやなことを自分の身に引き受けてゆく覚悟が必要--このことが喜びとなる--) 籐恵子(ゆりかご保育園--主人の膨大な借金を払い続けた--主人がガンになった--亡くなる前もう一つの借金を告白した--主人はがんになるほど苦しんだから恵子さんは怒らなかった--神様が許してくださっているものを私が許さないなんてできない--人は人に傷つき人を通して癒されます--痛みを共有してくれる人がその時々にいたのです--私もそのようになりたいのです--)

2002/09/29 「対話する神」 ヘブライ 6:4〜12  (MP3)   
アハブ王(--妻はバアル信者--王に対するエリアの預言”あなたは悲惨な最期を遂げる”--彼は妻にそそのかされたのである--アハブ王は悔い改めた--) 神はアハブ王には災いを下さないが子孫には災いを下すといった(--どうしてなの,祈りや願いにこたえてくださる神のはずなのに--対話する神--とりなしの神”アブラハムがとりなしたソドムとゴモラ”--) ヘブライ人への手紙(--再び悔い改めに戻ることはできません--神は不義な方ではない--) 末森千恵子(--大学生時代、友人が亡くなり人の死を考えるようになった--神以外知る由もない--結婚後主人を亡くした時、自分を責めた--自分の存在の小ささを思い知らされた--これだけ大変な思いをさせられたのだからなにかご計画があって絶対今後助けてくださるに違いないと思った--自分にはわからないけれども必ずあちらがいいように考えてくださる--ある意味で流されながら、なるようにしかならないという思いをもちながら生きる--仕事の選択も再婚のことも気が付いたら解決していました--) 自分だけでジタバタしているのが馬鹿らしくなる(自分の発想法とは違う形できっと助けられる)


                                                                                                 ページのトップへ戻る