2002/08/04 「教会としての家族」 エフェソ 5:21〜6:4  (MP3)   
(このお話の詳しい内容はこちらです)
神津カンナ(神津十月”こうづ かんな”、作家、エッセイスト、コメンテーター 「あけぼの」、二〇〇二年四月号、二頁--学生時代の思い出--奉仕活動--奉仕先で「歌をありがたく聞いてやるのも疲れるね。あの子たちはそれで満足なんだろうけどね。こっちはつまらない話まで付き合わなければならないから、参っちゃうよ」というお年寄りの話を聞いた--そのお年寄りのひとことは衝撃だった--先生がこんなふうに言った。「確かに人はそれぞれだと思う。でもね、もしかしたら私たちのなかに、押しつけや自己満足があったのかもしれない。それがお年寄りに感じられたのでしょう。いいチャンス。もう一度、自分たちの気持ちを点検して、どこかに奢り(おごり)がないか調べましょう」--) 人間というのは、一方的になりがちです(--「自分は、いいことをしている」、「自分は愛している」と思い込んで、いつの間にか、結果を相手のせいにしてしまう。こういう傾向があります--) 聖書は、「神のことば」と言われますが、それは、教えの書とか、お手本という意味ではありません。聖書は、「人の書いた神のことば」です。聖書を読み取るときに、私たちは、それを書いた人の信仰を読み取らなければなりません。それが聖書を「神のことば」として読むことです。信仰を受け止めなければ聖書は聖書でなくなります ホアン・マシア(上智大学神学部教授--「あけぼの」、二〇〇二年四月号、三三頁--「イエスがおっしゃった『私が愛したように愛せ』という言葉を、よく誤解しますね。この『ように』は決して自分のとおりに、ということではないのです。『私は神の息吹の力でもってあなた方を愛した、そのようにあなた方の中にも私の息吹を置きます。もしあなた方が本当に人を愛せるようになったとしたら、それはその息吹のおかげなのです』ということで、これは励ましの言葉なんですよ」) 共に悩む姿勢を持ち続ける(単なる方法で解決しようと思わないことです。信仰を持って接してゆく、それが信仰者にとっての唯一の救いの道です。解決できた、ということを喜ぼうとするのではなくて、神様がお前はまだまだ悩み方が足りない、私がこんなに悩んでいることが分かっているかとおっしゃっているかも知れない。それも一人で自意識過剰に、「困った、困った」と狼狽しないで、同じように悩んでいこうという姿勢を持つ、それが、「教会としての家族」ということではないでしょうか--)

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