重兼芳子・前島誠(「癒しは沈黙の中に」、春秋社、一九九〇年二月二五日、第一刷、「癒やしとはそもそもなんだろうか。人間の存在は肉体のみで成り立っているのではない。肉体と精神と心とで成り立っている。誰も近付こうとせず、誰からも愛されず、自らも死をのみ願っていた病人がイエスの愛に触れたとき、病人の全存在がイエスの光によって立ち上がった。生命力に充ち溢れ、死へ傾斜するのみだった人生の軸先が、生の方向へ転換し向け替えられたのである。 病んだ人間全体が生き返った、と見るべきだろう。--本当の意味で自分に絶望する、ということですが、これが意外にむつかしいのです。--その中途半端なところから、ひと思いに「自分は壊れて不完全な人間だ」と、神の前に心を開いてしまったらどうだろう。そう認めることは、かなり決心が必要だろうけれども、一度そう認めてしまうと、その後の人生がぐっと気楽になるのである--) 聖書で示されている癒しの業というのは、単に病気の箇所、怪我の箇所を治してあげるということにとどまらないで、その人が絶望的な生き方をしていたのを希望の生き方に変えられる、人間全体が生き返るということです 塩谷直也先生(梅が丘教会牧師、「土の器」「あけぼの」六月号--いずれにしても箱や器自体が高価になると、その本来の役目を果たせなくなる。パウロの言うように、土の器こそ、器としての役割を果たせるのだ。思えば、我が家の数ある皿の中で、一番活躍しているのは、プラスチック製「機関車トーマス」の絵が描いてある安皿だ。逆に高価な皿になればなるほど、もったいないなんて言ってしまい込んでいる--皿は高価になればなるほど、料理を盛られることを拒否し始め、己の絵柄を誇り始める。車も高価になればなるほど人を運ぶよりも、羨望の眼差しを向けられることに快感を感じ始める。人も同じ。立派になるほど自分の上にイエスを乗せる事を拒絶する。福音の器として、神の道具として使われることがバカらしくなる。だからパウロは念を押す。「土の器でいい。いや土の器、安皿であり続けることが重要なんだ。機関車トーマスの皿が、塩谷家の料理を最も多く運んだように、最も安い器こそイエスを、救いの喜びを世界の家庭に運んでいくんだ--)
そうです。安い皿ほど使いやすい。いつでも代わりを買えます。私たちは、そういう「土の器」なのです。いつでも代わりがある。だけど、イエスはそのような器をこそ特に選んで、「よし、頼むよ」と言って用いてくださる。私たちの弱さと欠けを分かった上で用いてくださる、ということをしっかり受け止めなければなりません。詳細解説は
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