2002/02/03 「切羽詰って」 マルコ 2:1〜11  (MP3)                    
4人の友人が病の人を天井を壊して吊り下げイエス様の前に連れてきた話(これは非常識な行為である。イエス様の話が中断される。でも、イエス様は怒らなかった「子よあなたの罪は許されたといった」)(当時、病気は罪の結果であると思われてい) 道徳的に悪いことでも、イエス様によって信仰的とされる 清水啓三牧師(イエスはこれを見て信仰とみなされた) 「ゼノ死ぬヒマない」 アリの町で教会をたてた(ゼノさんは正式承認された神父でなく、生涯修道士であった、でも司教様からは神父と同じ仕事をしていますと言われ、教会が建てられた) 私たちの愛に迫力感がないのは、常識的や固定観念が災いする、そして自分自身の気付きを恐れる。

2002/02/17 「荒れ野への派遣」 マルコ 1:12〜16  (MP3)                  
 40日(--聖書では特別な数字--)
 マルコによる福音書(--すでに神の国が到来している--神の国は今ここにある--)
 誘惑(--神が受けさせられた--道徳的にいいことをするのに思い上がるに悪魔は仕向ける--)
 悪魔(--旧約では--堕落した天使,神に反抗することをそそのかすもの,しかし、悪魔も神の支配下にある--)
 試練(--なぜか神がこの試練を与えておられるか--神に生きようとしないものを悪魔は誘惑しない--自分自身のことが問われている--)
 マルチン.ルーサーキング牧師(--「自伝」--最後の説教が遺言となっている--サマリヤ人のたとえ”この人を助けなかったらわたしはどうなるだろうと考えていた。しかし、。この人を助けなかったらこの人はどうなるだろうと考えが変わった。”--隣人になろうとして試みた人を神様は喜んでくださる--) 

2002/02/24 「聖霊を冒涜するな」 マルコ 3:20〜27  (MP3)                  
プロテスタント教会は不自由だ(--プロテスタント教会からカトリックに移った人の話--説教が道徳的である--なになにすべき、なになにすべきではないという話が多い--信仰が道徳に留まっている--) 信仰は感性である(--見えないものを信じるのには感性が必要である--道徳は見えるがゆえに信じやすい--) 聖霊を冒涜するとは神の働きを認めないことだ(--見せ掛けだけの信仰--こんな私ではだめだと思うことも入る--) 藤木正三牧師(--学生時代から一般的な教義に自分を合わせていらだっていた自分がいた--私は私のままでよいと私自身を受け取る、これが神を信じることだと思ったとき心の中にあった無理がなくなった、客観的な正しさなど恐れる必要はない--自分の信仰に普遍性を求める必要などない--ただ、その主観性とと相対性をわきまえていればよい、その限度を自覚している限り、どのような信仰を持とうと自由である--あれでもよいこれでもよいと認めることだ--囚われのない広い世界を生きることなのだ--生きている教会とは雑然としたものが同居するのが教会だ--)

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