2001/11/04 「人間のみの不条理」 創世記 4:1〜10  (MP3)   
上島美枝(--島松伝道所--讃美歌二一の三八五番は、私の愛唱歌の一つでもあります。特に、四節の歌詞、「この友を包んだ主の光」という言葉は、今、天上にある人を偲ぶときの一番大きな慰めになります。--讃美歌二一略解によると、「この世の生涯を終えた人の姿に、主を信じて生きる新しい力を与えられる」ことを表現したかったそうです。--「この友を包んだ主の光」、これは、どのような死に方をされた人にも当てはまることです。--これが、私たちの信仰です。そうでなければ、いわゆる悲惨な、あるいは非業の死を遂げた方は浮かばれません--私たちには分からなくても、この人も主の光に包まれているのだ、という受け止め方がとても大事だと思います--) アベルの物語(--「はかない」とか、「空しい」という意味--神がなぜカインの捧げた物を受け入れられなかったかの勝手な理由付けをしてはならない--理由のわからない--楽園から追放される--神様は、殺されないように、しるしをつけられた--) 不条理(--私は何も悪いことはしていないのに、どうして私だけが、こんな目に遭うのか--神様にしか分からないことは、じっと我慢して、その答えを待つしか、方法は無い--その際、神様は決してその人に決定的に悪いことはなさらないと信じることが大切なのだ--) 善悪の知識(--比べる--優越感、劣等感を生む--) 小塩節先生(--随筆集「朝の光さすとき」--岩から滑って落ちた時--情景を『走馬灯』のように想い出す--なにもかも澄まぬことばかりだった。そして今、ひとり先立っていくのか--”毎日新聞に掲載され投書の中より”「四歳になる姪が尋ねてきた。一輪の花が咲いたように、明るい一日だった。近くに公園があるので、手をひいて遊びに行った。ひとしきりたのしく遊んで帰ろうとすると、公園のすみにお地蔵さまがまつってある。めいはその前に立ちどまって、おがんでいくという。しゃがんで、両手を合わせ、一生けんめいおがんでいた。 何といってお祈りしたの。そうきくと、めいは、「カミサマ ナニモモッテコナクテ ゴメンネ」と言ったという--ぎゅっとこの子の手をにぎりしめて家へ帰った--)

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2001/11/18 「自信がなくていい」 出エジプト記 6:2〜13  (MP3)   
モーセ(--エジプト脱出で偉大な指導者のイメージがあるが4章、6章”書いた人が違う”では弱弱しい姿が描かれている--私はできませんと神様に訴えた--) 割礼のない唇(--口下手--) 舌の重いもの(--モルトマンはモーセは”吃音、どもり”の障害を持っていたのではないかと解説している。さらに”障碍を持っているものも神はお用いになる。老化現象「聖書にはモーセは80歳とある」がある、体に欠陥のある人を用いて救い出された”--) パウロ(--知恵のあるもの、能力のあるもの、家柄の良いものが多かったわけではありません。ところが知恵のあるものに恥をかかせるため、世の無学なものを選び、力あるものに恥をかかせるため世の無力なものを選ばれました。また神は地位のあるものを無力とするため世の無に等しいもの、身分のいやしいもの、見下げられているものを選ばれたのです--神の前で誇ることがないようにするためです--) 神様に食って掛かる(--聖書では否定していない”ヨブもそうした”--神様との近い関係を表す--) 星野富弘「愛、深き淵より」洗礼を受けるときのこと(--聖書のほんの上っ面しかわかっていなかったがキリストの”私ところにきなさい”という言葉に素直についてゆきたいと思った--今の苦しみが洗礼を受けたからといって少なくなることはないと思うけれど。人を羨んだり、憎んだり、許せなかったり、そうゆう醜い自分を忍耐強く許してくれる神の前にひざまずきかった。許されても、許されても聖書の言う罪を犯し続けるかもしれない。苦しいと言ってわめき散らす日もあるかもしれない。でも”父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているか自分で分からないのです”と十字架の上から言った清らかな人に従って生きてみようかと思った--)

2001/11/25 「選ぶのは神」 サムエル記上 16:1〜13  (MP3)   
主題(王の職務) 永山教会会堂完成真近(沢山の助けがあってできた 主導されるのは神) 神様はサウル王を選んだことを後悔した(このことが聖戦”ジハード”の根拠になったのか?) 神様の選び(--主は心によって見る--人間の選びは究極的にはあてにならない--主観だけではなく客観的事実が伴う--) 石川牧師を選ばれた神(--北海道の開拓伝道から始めた--聖霊の導きがあった--禁酒禁煙の時代もあったが?--いつも満たされていたから先を心配しない--信仰は道徳ではない--見えない方が主権者であるということをしっかり受け止める--あちらが道を開かれる--返事がなくとも待ち続ける--) 関茂先生(「信徒の友」”時は御手の中に”--神様導かれて今日まで来ました。ありがとうございます。これから先のことはわかりません。でも、御手にゆだねて安心します。私たちの今日、明日、あさって、あなたは確かに備えていてくださっています。私たちの知るところはわずかでも、あなたはすべてをご存知です。だから信じさせてください。あなたはあなたを信じる者たちに最善をもって報いてくださることを。ゆえに私たちは心配しないでただあなたにお任せすればよいことを。神様!導かれて今日まで来ました。ありがとうございます。これからはなお過ごして月日や季節、なおこえていく山や谷のいくつか。けれども少しも恐れません。時は皆あなたの御手の中にあります。我が人生の全部があなたのものです。主のみ名によってアーメン--)


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