主題(宣教への派遣) 森野善右衛門(「大いなるバビロンが倒れた」、新教新書二三六、五六頁--「世にある教会は、全体として、聖霊を受けて世に派遣される教会であり、伝道する教会であります。閉じられた戸は、世界に向かって大きく開かれなければなりません。世から隔絶して、その戸に鍵をかけ、自分たちだけの内輪の楽しみにふける教会は、キリストの教会ではなく、ペンテコステの教会ではありません。それはペンテコステ以前の、キリストの復活に出会う以前の弟子たちの姿でした。キリストの教会は、もはやペンテコステ以前に戻ることはできません。派遣の主はキリストであり、そこで弟子(ディサイプル)は使徒(アポストロス)に、すなわち「つかわされる人」になるのです。) 私たちも「弟子」(ディサイプル)から「使徒」(アポストロス)となることが求められています 伝道(一部の人たちがしているように、個別訪問をするとか、キリストを信じなさい、と説得することだと考えてはなりません--それは、私たちの存在そのものが宣教なのだ、ということです--言葉や行動で、どれだけ伝道しても、私たちの存在そのものがキリストを示していなければ、宣教になりません。逆に、私たちが語っても語らなくても、行っても行わなくても私たちの存在が変えられていれば、そのことが宣教になります--つまり、病気で何も出来ない人が宣教することもあり得ます) みんなイエスさまに「これと思われた」人なのだ(私たちには、あの人がどうしてイエスさまに「これと思われた」のか分からない、という場合、そのように見えたのは、自分たちの目が狂っている、と受け止めなければいけません。イエスさまが、とにかく「これと思われた」のだ、と考え方を変えなければなりません) 、挫折の時、行きつまりの時、誘惑の時こそ、宣教の時なのです ミシエル・クオスト「神に聴くすべを知っているなら」、日本基督教団出版局、二二八、二二九頁--さあ、おそれないで手をお出しどろ沼があれば、おんぶして運んであげよう だから、きみは小さく小さくなりなさい 小さな子だけが、父におんぶしてもらえるんだから。) (詳しくは
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