2001/07/01 「主の貧しさによって」 コリント2 8:1〜15  (MP3)   
主題(生涯の捧げもの) 信仰の業としての献金の勧め(--根源は神の恵みに突き当たる--”カリス”恵みを受ける--”デアコニア”奉仕の業--”ハドローテス”豊か--”エウロギア”贈り物、祝福--”レイテールギア”公の奉仕、礼拝--”コイノーニア”交わり--) パウロがマケドニア州の教会献金を褒める(--満ち満ちた喜びと極度の貧しさ”キリストは豊かであったのにあなた方のために貧しくなられた。ことに対応している”があふれ出て人に惜しまず施す豊かさとなった--) 献金(--旧約では十分の一献金を教えているが何の十分の一かではなく質を求めている”自分にとって貧しくなり、惜しいと思う金額”--) 福音ルーテル武蔵野教会(月報「武蔵野だより」の編集者"秋田 淳子"編集後記「天使の梯子」--車に傷をつけてしまいいらいらした日々を過ごした--母から”車が傷ついたくらいでなんですか、イエス様が人々からどんなに傷つけられ、十字架の上で心痛められたか、考えてもごらんなさい”と言われたがなかなか理解できずにいた--社会に出て色々な人と接している中で、その言葉がふと思い出されることがあります--) イエスの痛み、その貧しさ(--私たちの捧げものの意味はその幾分かにでも加わることである--それは恵みなのですから私たちも同じ恵みにあずかれる--)

2001/07/08 「罪びとの・共同体」 使徒言行録 4:32〜37  (MP3)   
主題(主にある共同体) 一番最初にできた教会の姿(心も思いも一つにし--全てを共有していた) 完全に一致した集団はあり得るのだろうか(普通では想像できない--ルカは理想的な”旧約に書かれている--神が祝福されると貧しいものはいなくなる”という姿姿を表現したかった--一方で、パウロは貧しいエルサレム教会のために募金をしていた--貧しいクリスチャンたちもいた) 藤木正三牧師(--一致が同一を意味するのなら完全な一致というものはおそらく存在しえないでしょう--一致とは相違しているものが補完しあうことなのです--人は何によって一つになる--内側に共通の事実を自覚するまでは一つにはなれないでしょうか--罪を置いて共通の事実に出会えない--罪においてひとつ--) 石井錦一牧師(罪を受け止めることは最も強いことだ--自分自身との徹底的な戦いを抜きにしてわかることではない--強靭な精神力がある--震源的には不幸なことであっても愛と真実の神を信じた時その災いが逆転され私たちの祝福に変えられる--) キリストに招かれた罪びとたち同志(嫌いな人もキリストが招かれなければそこにはいない--キリストがその人を招かれている--このことが意識から薄らぐ裁きあいになる--) ジャンバニエ神父(ラルルシュ共同体「一つとなるために」--完全で優れているからでなく、イエスが私たちを一つに召し集めてくださることを信じるがゆえに--招かれて奉仕します--この時真に共同体が一つの体であることを知るでしょう--一人一人が共同体の一員--共に結ばれている--どの一人でもその共同体に居場所があり--ある人が他の人より優れているということがありません--すべての人に居場所がある--なぜならキリストが招いておられる--この事実の前には私たちが人を変えさせようとすることではなく、自分を変えていくということが先行してくるのではないでしょうか--)詳しくはここをご覧ください

「分類キーワード(罪)」

2001/07/15 「感謝と祈願」 テモテ 2:1〜8  (MP3)   
主題(祈り:すべての人のためにに捧げなさい:万人救済”全ての人が救われる”) 主の祈り(--日に一度祈るだけでも十分である--自分を知るための祈り--祈っている中で自分の姿が示される--自分の願望が実現されるための祈りではない--もっともよい解決の方法を示しておられる) われらの父よ(私だけの父ではない--意見の合わない人の父でもある--) 祈り(--感謝と祈願--まず最初に来るのが感謝である--) 関茂牧師(下ノ橋教会 「今この時この祈り」信徒の友 ”感謝”--神様朝の新しい目覚めを感謝します--祈るのは私だけではなくあの人があの友が私のために祈ってくださる--”この祈りには祈願はありません”--”御国が来ますように--この現実の祈り”--世界は御国から遠く、愛と平和が十分に満ちていません--”ありがとうが前提となっているときにどのように祈るかが見えてくる--”) 祈りは最も美しい詩である--無駄な言葉を省く--祈祷書を見てうらやましくなる--式文による祈り--自分の言葉によって祈る場合無駄な言葉が多い--) 慇懃無礼な祈り(--この捧げましたものを御心のままにお使いください--私たちが全部いただいたものであるのに”お使いくださいとは何事だとイエス様は怒っていらっしゃるかもしれない”--私たちは大変丁寧に祈っているつもりが聞いていらっしゃる方を怒らせてしまうことになっていることを考えなければならない--多くの言葉はいらない”イエス様はすべてをご存じである”--) 殺人の祈り(詳しくはここをご覧ください)

2001/07/22 「神を利用したい」 使徒言行録 19:13〜2  (MP3)   
神の名(十戒の第三番目の戒め”神の名をみだりに唱えるな” スケアーの子供たちはイエスの名を使って魔術をしていた。) 主よ主よと言うものがみな天の国に入るわけではない(マタイ7:21 イエスはあなたたちのことは全然知らないという--クリスチャンで信仰を持っているからといって安心するな--慣れっこになって神様を召使のように使うな”神の名を使って自分の欲求を果たしたいだけの祈りをしていることに気づきなさい”--慇懃無礼な祈りになるな--) イエスキリストの名(主”ヘブル語のヤッファウェーがギリシャ語に翻訳されたときキュリオスとなった” 初期キリスト教の時代一世紀ごろローマ皇帝も”キュリオス”と呼ばれていた--イエスを”キュリオス”と呼ぶことはローマに対する命がけの反逆行為でもあった--) 魔女狩り(--神の名を用いて裁いた--自分たちだけが正当な信仰を持つと思い込みこれに違反する者たちを”異端とした”----教義、神学だけでイエスを判断するとこれに反するものは異端とされてしまう危険性がある--) 主の名を唱えさせていただいているのだ(”ありがとうございます、ごめんなさい”の両方の言葉を思い浮かべながらイエスの名を唱えるものとなりたい)

2001/07/29 「違いを喜ぶ」 ローマ 9:19〜28  (MP3)   
小柳伸顕牧師(「礼拝と音楽」--バラバラで一緒、差異を認める世界の発見”京都東本願寺のスローガン”--日本の外国人政策に採用してほしい--一つになってバラバラの現状の教会には耳の痛い話です--) 異邦人の中からも召し出してくださいました(--パウロの言葉--ユダヤ人”選民”でなければ救われないとしていた旧約の世界からみたら革命てきなことです--”現代の私たちの言葉に変えれば「信者のばかりではなく未信者の中からも召し出してくださいました”ということになります--) 教会は聖なるところ、一歩外に出たら悪が満ちているところ(--”だからクリスチャンは世間の人と同じではいけない、清くなければいけない、未信者の人とは違うのだ”ということが強調された--これは聖書の読み違いである--) すべての人を豊かにお恵みになる主がいます 釜ヶ崎ふるさとの家での本田哲郎神父(「小さくされた人々への福音」--夜回りの仕事を手伝った--リヤカーを引いた--ホームレスの人に毛布いりませんかと言った--この経験が神父の生き方を根底から変えた--イエスキリストの生き方はこのようなものであったかと思った--聖書をもう一度読み直した--今までの読み方が間違っていたとわかった--相手の人の為にではなく”共に”が大切である--相手の痛みを共有している--) 主はつぶさに見、知り、聞いてくださった。主は必ずあなたと共にいる(--神の愛はこのようである--) 違いが喜びに変えられる)


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