2001/04/01 「イエスの杯を飲む」 マタイ 20:20〜28  (MP3)   
マルコによる福音書(逆説の福音書”一番近くでイエスに従っていた弟子たちがイエスを理解していなかった。イエスに対して頓珍漢な態度を繰り返した”弟子たちの失敗や弱さを書いている) マタイ、ルカによる福音書(弟子たちはすべてを捨ててイエスに従った。弟子たちのを尊敬して書いている。弟子たちを悪く言わない。教会のお手本としての弟子を書いた。) 杯(恵みをいっぱいに頂く杯。死にいたるほどの苦難をいただく杯”いただく苦難には意味がある”) の榎本栄次先生(敬和学園校長--「川は曲がりながらも―北海道開拓伝道14年の記録」--漆まけ--慰めを受けるのは同じように傷ついた人からである--キャンプで漆負けをした--顔が腫れあがった--目もまともに開かない--いろいろな人がアドバイスをくれた--自閉症の子供:Mがすり寄ってきた--漆に負けたというとMはうれしそうな顔をして--赤くただれたわたしの顔を撫でてくれた。--毎日やってきて医者が見るようにみて聖書で患部を撫でてくれた--うれしそうに榎本牧師漆に負けたと言いながら帰って行った--いつも偉そうにしている榎本牧師が見るも哀れな様子になっている--その牧師に何とも言えない親しみと連帯を感じたのだろう--わたしに対して憐れんであげる側に立てた--会話ができなかったMと初めて話し合えたような気がした--)

2001/04/08 「自分を救えない主」 マタイ 27:32〜54  (MP3)   
シュバイツァー教授(スイスの神学者 --現在の私たちの状況--そこにはイエスはおられます。しかし彼の弟子たちはもはやそこにはおりません”十字架処刑の場面”--もしかしたら世界全体が彼を中心にして展開しているにもかかわらず彼の教会はそこにはないという状況です。彼を告白することのできたものはそこには全くいなかったのです--) 現代社会にも当てはまる十字架処刑の場面(”兵士たちはイエスを侮辱した”--階級社会に属するものが階級の低いものに当たり散らす--”苦いものを混ぜた葡萄酒”--わたしたちが良いと思ってやっていることが受け取られない。可哀そうだからしてあげるという上から目線は苦いものを混ぜている--”イエスの服を分け合っている兵士たち”--苦しみ悶えている神の子がいる状況の中で傍観者である私たちがいる--”二人の強盗がイエスを嫌味を言った”--一番大事な時にこのような皮肉を私たちも言ってはいないだろうか--”自分を救ってみろ”--傍観者的なものの発言。マスコミの発言を信じ自分の意見を持たないもの--”他人は救ったのに自分は救えない”--今の私たちにグサッとくる言葉。信じた人は良くなり、信じない人は悪くなるという宗教家の常套文句--”わが神どうして私をお見捨てになったのですか”--無意味な苦しみの中、絶望の中で滅びた人に救いがある。もだえ苦しんだ人の中に神が共にいて苦しんでいてくださる--) 善きサマリヤ人(アンピョン牧師”韓国の神学者”--苦しみ倒れている旅人がイエス--熱心な信者ほど避けて通った--当時蔑まれた人がイエスを助けた--) キリストが自分を救えなかったことに逆説的な慰めを感じる(無意味としか思えない苦しみの中にキリストがともにいてくださる) シュバイツァー教授の祈り(あなたが私たちに何事かを期待されるときに、わたしたちはしばしばそこにおりませんでした--わたしたちの無関心、唇だけの告白、証明を求めるすべての誤りからわたしたちを解放してください)

2001/04/15 「神は人よりも強い」 マタイ 28:1〜10  (MP3)   
アン・ピョンム牧師(韓国民主化運動の指導者--復活節のメッセージが春の太陽とするなれば、そのメッセージを聞いた魂は、春の新芽である。しかし、復活節は、春がもたらすものではなく、二千年前に起こった、一つの歴史的な事件がもたらしたものである--人類の歴史にも、長い氷河期があった。その時も太陽がなかったわけではない--。しかし、まだ歴史の春は来ていなかった--その当時ですら、体は死んでも、精神は死ぬことはないと思われていた--しかし、冬は続いた--最後の武器は死であった--真理は必ず勝つとか、事必帰正とかいったことも、この死の前では、すべて虚言であった--このようなとき、イエスがこの世にやって来たのである--新教出版社、新教新書二一八、アン・ピョンム「現存する神」一九八五年七月三一日、第一刷、七六、七七頁--) イエスのいないところでは、今も同じです。結局、力、力が物言います。残念ですが、キリスト教会においてもある程度当てはまっているようです(--イエスが力の象徴になっている信仰がそうです。イエスは死んでも死なない、フェニックスのようなキリストであると信じる信仰がそうです--イエスは死んだが、それで一巻の終わりではなく、復活というどんでんがえしがあっ、と言うことではないのです--) 神が全能ならば、どうして悪が栄え、不当に苦しみに陥らざるを得ない人々が世に満ちているのか(--この世に不義と悪党が乱舞しても、神が全く介入しないとき、われわれは、『おまえたちの神はどこにいますのか』という問いに、どう答えるのだろうか。他人に答えることが問題である前に、自身の信仰の基盤が崩れることこそが問題である。」(前掲書九二頁--) なぜ、福音書の著者は、あえて無力な「神の子」の姿を描いたのでしょうか?(--人間には到底神を理解するすべなど無い。したがって、神自身が、人間の認識圏内に入って来ることによってはじめて、神に接近する道が開かれるのである。この告白こそが、受肉の信仰である。」 同一〇二頁--) 人間の持っている善悪の価値観、強いこと、成功すること、美しいことが良いことで、弱いこと、失敗すること、醜いことが悪いことという考え方が真っ向から否定されています-- ボンヘッファー牧師の獄中での作品の一つが紹介されています。
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2001/04/22 「私を生かすイエス」 マタイ 28:11〜16  (MP3)   
主題(復活、顕現) モルトマン博士(スイスの神学者--キリストのいますところ、そこに命がある--旧約の神がとても人間的なことに戸惑う”妬む神”--偶像の神は人間を超越している”神が死ぬなどあり得ない”--ヒットラーに捕囚された人々とともにいた) マタイによる福音書(イエスを十字架につけた張本人としてのユダヤ教を徹底的に批判している--ユダヤ教はイエスの遺体がが墓から盗まれたたのだと思っているということに対し弁明している--) 正しい人は自分の姿に気づかない 復活のイエスはガリラヤで出会う 神はまず私たちを肯定なさる(--感動の命--あなたのことはわかっている、でも、私はあなたと共にいる。お前を作ったのは私”神”である--) 復活(--イエスがむくむくと生き返ったということが問題ではなく、イエスの命が本当に私の中に生き返ってくるかということが復活の基本--) 私は神からOKと言われたのです(--だからあなたにも福音を伝えたいのです--) どんな絶望的な状況に置かれてもイエスの愛を受け入れた人はその生を終わるときに後悔がない(--偉大なる肯定にあるから、何が足りなかったなどは問題にならない--キリストイエスの日に向かって歩いている--生かされた命の目を外に向けて、人を生かす道を歩んで行ける--感動して生きてゆく--)

2001/04/29 「神の愛の証明」 マタイ 12:38〜42  (MP3)   
しるし(”広辞苑”--印、契、璽、徴、験--”聖書辞典”--超自然力によって起こる出来事で神の業の権威の証明としての奇蹟としるし--) ”しるし”がかなの意味(--いろいろないみをふくむためにかなとなった--) ”しるし”を見せる(--信じる者以外には理解できない--) 晴佐久神父(--イエスは神に見捨てられたというどん底にありながら神に問い続けている”究極的に完成された人間の姿”--神はこのイエスの徹底した神への信仰と愛に貫かれた生と死を全面的に良しとして受け入れご自分の懐へ抱き寄せて、最終的な祝福を与えてくださった。それによって死の支配下にあった全世界は蘇り今や人類はイエスとともに神の世界に生まれ出たのである--「星言葉」”信じる”--素朴に信じるいうことでよいのか--疑いは対立を生む、疑いは疲労を生む、疑いはさらなる疑いを生む、それに対し信じることはそのままエネルギーだ、信じれば信じるほど生きる力を生む、どれだけ疑っても疑いから返事は来ない、どのみち一瞬先は誰にもわからないのだ、信じたものだけがその一瞬先を切り開く、決して負けない、希望を捨てない--自分を信じよう--自らを超えた力を、昨日の失敗はその力に目覚めるためだったのだ--他人をも信じよう--みんなで明日を信じてみよう--信じることそのものが救いなのである--) 同じ出来事を見た(--その人の姿勢によって違ってくる--信じているかどうかによって決定的に違ってくる--) ご縁があって(カトリック高幡教会月報より--神様のご縁”受け取り方によって違ってくる”--これも何かのご縁と思い洗礼を受けることになりました--) 礼拝にめったにいけませんが(--この方も神様がお作りになった--) 自主的な教会(--できる人ができることをすればよい--どれが大事でどれが大事でないという集会は持たないほうが良い--) 祈祷会(--自主的に祈ることができるようになった人たちが集まる--これができるようになったから上級信者等とのレッテルは貼らない--) 信じることができるということが神の愛である 


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