1999/10/03 「主の体との合体」 ローマ 14:7〜12  (MP3)   
洗礼(キリストと合体しているので自分で生きている人はいない) 聖餐の意味(--当時聖餐とは食事を共にする行為であった--ふさわしくないままで聖餐にあづかってはならない”意味を取り違える人が多いので石川牧師は聖餐式で使用しない--コリント書の中では集まる人がまちまちな中で裕福な人たちは聖餐式=食事を先に済ませ、貧しいため遅れてくることしかできない人々の食べるものが無くなってしまっていた状況に対して憤ってこのように言った--洗礼を受けているかどうか、また正しいことをしなかったからふさわしくないということは関係しない--) ボーレン(--これらの最も小さいものにしなかったのは私にしなかったのです--この言葉をしっかり思い起こさないミサは噴飯ものだ--あなたの両手を見てくださいそれはあなたのための手なのです--全体のための手です--他の人の信仰によって支えられている自分を忘れるな”一人一人の顔が見える聖餐式であってほしい”--) 日本の教会は人間関係で躓く人が多い(神がなぜあの人を通してこんなことを言われたのかなと神を主語とすることが必要) ルター(--穀物の粉が砕かれ一つのものとなるまで砕かれるのである”私がつぶされて全体が膨らむように”--我々もキリストのパンなのです--あなたは私の味を楽しむのです--)

1999/10/17 「排除したくなる誘惑」 ヘブライ 10:32〜39  (MP3)   
主題(忍耐) 山本直純 山根基世インタビュー(カトリック雑誌”あけぼの”--我慢はダメ忍耐しなくては--我慢は爆発する。忍耐は爆発しない--”我慢は自分の努力、忍耐は信仰”--) ヘブライ人への手紙(--迫害のもとにあった信者への回覧説教ではないか--忍耐が必要です--) 榎本栄治牧師(「川は曲がりながらも」--北海道で資金の無いところから苦労の末教会堂”北部伝道所”を建てる--”神を信じる”--情緒障碍を持ってる子”M君”を持つ母の話--障碍そのものより偏見、差別に参ってしまうのです--Mちゃんお母さんと一緒に天国へ行こうかというと、にこっとして”うん”と答えます--新聞などで障碍児殺しという記事を見ますと他人事とは思えません--Mの手を引いて神様のもとに行ったら”お前はどうして私を信じなかったのか”と問われるでしょう--私はMのことを神様に任せようと決心しました--Mと同じような子が安心して暮らせる社会を作ります--) 

1999/10/24 「否定の中の肯定」 創世記 1:1〜3,24〜31a   (MP3)   
創世記(--科学の事実を書いたものではない--書かれた時期はバビロン捕囚の頃--捕囚の民は発達した都市を見せつけられ、お前たちの神はどこにいるのかと罵られた--自分たちは根源に帰ろうといて信仰の告白として書かれた--全てを否定されている中で”混沌の中に光あれ”を信じた--) 関田寛雄牧師(せきた ひろお --神の評価でなく自己の評価を求め、神の肯定でなく、自己肯定を求め始めるとき、神は怒り裁きを持って世界に臨まれる--) 神は足りなさをよしとしている(パウロは弱さ”足りなさ”を誇ろうと言っている--自己否定の結果は神から遠く離れる--) 永山教会堂建築(--実力以上のことを求めているのか--土地購入の奇跡は神の業です--) 三浦綾子(「命ある限り」--旭川六条教会堂建築--これ以上の献金は捧げられないと考えていた時--絵を習っている、年に一度くらいしか教会に来ない画家にそのことをはなした--画家は教会堂建築は信仰ですから出来ますよと言われた--感動した--金を勘定する前に自分の信仰を顧みること--聖書の前にひざまずくことである--平安を与えられ、出版社に前借を持ちかけた”私たちに出来ることをして信じて待つ”--) 榎本栄治先生(敬和学園--北海道での会堂建築--新年礼拝で夢として語った--私は年金で暮らしていきますからと一千万円の献金があった--この人の兄に相談したら使わないでくれと言われたので”そうですか”と答えておいた--近くの大工さんに相談した--つぎからつぎに不思議なことが起こり会堂建築にこぎつけた--) 


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