1999/09/05 「三角関係の家族」 コロサイ 3:18〜4:1  (MP3)   
主題(主にある家族) 保険金殺人(家族を殺した悲劇) ヨセフ物語(兄弟に殺されそうになった 悪を善に変える神) 三浦綾子対談集(「家庭」--家”衣食住”と庭”心のゆとり”--心の庭を持っているのか--) 心の庭を育てるのが礼拝 バークレー(教会は絶望を知らないただ一つの集団組織であらねばならない) 星野富弘(「あなたの手のひら」--”父の思い出”--あなたが最後に見た季節が季節がまた巡ってきました--あれからまた私は幽霊というものがいてもいいと思うようになりました--出来ることならあなたに幽霊となってもう一度会いたいのです--父さん気付くのが少し遅かったけれどわかりました--詫びることも、お礼を言うこともできない別れがあることを--”メロン”--旨そうな種のところは捨ててしまったり--皮を厚く残したり--すみません--メロンを食べるたびどこかがつぶやきます--ぼろを着て畑を耕していた父を思い出してしまうのです--)

1999/09/19 「栄光が限りなくあれ」 テモテ 2:1〜13  (MP3)   
主題(神の憐み) 永山教会創立25周年記念礼拝(永山教会の起源--若い牧師の死--野口重光牧師”戦争で挫折し牧師になることを決心した。農村伝道神学校に入る” 北海道置戸”おけど”教会に赴任--四十三歳で天に召された”町葬となった”--残された家族のため遺児募金が始まった--多摩ニュータウンで済むようになり遺児資金で保育園を作った--保育園で礼拝が始まった--近くの農村伝道神学校の学生が協力してくれた--1974年9月19日日本キリスト教団永山伝道所として認可された--中嶋牧師、田中徹夫牧師、石川和夫牧師を経て会堂を持つようになった--) 挫折を生かされる主(あわれみに富む神) 記念(イエスが最後の晩餐で述べた言葉 歴史の流れを思い起こし背後にいた神を思いおこす) 私たちが日記をつけるときには神が主語になればいい ボンフェファー(「よき力に導かれ」--よき力に真実に、静かにとりまかれ--不思議にも守り慰められて--私はこれらの日々を君たちと生き、そして君たちと共に新しい年へと歩んでゆく--われらに苦き杯を溢れるばかりに満たされた苦しみの苦き盃をあなたが与えたもうなら--われらはそれを恐れず感謝して--あなたの慈しみ深き愛する御手から受け取ろう--静寂が今や深くわれらの周りを包むとき--あいともに聴こうではないか--目に見えずに我らの周りに広がる世界の豊かな調べを--あなたのすべての子らの高らかに歌う賛美の歌を--よき力に不思議にも守られて我らは心安らかに来たるべきものを待つ--神は夜も朝も、そして新しい日々も必ずわれらと共にいましたもう--)

1999/09/26 「神の奴隷」 テモテ 2:1〜13  (MP3)   
主題(捧げもの) 十分の一献金(--自分と神様の関係として生きる”神の奴隷として生きる”--十分の一とは惜しいなと感じる金額と理解すればよい--私を生かしているのは金か神か私は何によって生きているのか--礼拝のクライマックスは献金である”自分をどのように捧げるのか”--わずかばかりのものですが御用のためお使いくださいという祈り、またわ、私のレプタ二つですがという祈り”挨拶代りのようなもの”は神に対して慇懃無礼である--レプタ二つを捧げた女性は自分の全部を捧げた。それと比べることはできない--) ローマ人への手紙(罪許されたもの”享楽的な生活を送るもの、いやいやそれではだめだやはり規則が必要である”このように考えていた人たちに対する注意) カールバルト(--洗礼を受けたことは極めて危険な出来事であってその現実の光と影とが洗礼を通して人間の上に降りかかるのである--エルサレム郊外の十字架上で死んだのはイエスキリスト一人ではなく彼と共に私も永遠に死んだのである--復活したのはイエスキリスト一人ではなくこの人間もまた彼と共に死者の内より永遠に復活したのである--) 竹森満佐一牧師(神学者--洗礼とは--帰化したばかりの外国人のことを考えてみることができる--目の色は変えられず--味噌汁は嫌いでパンばかり食べているかもしれません--日本人の気持ちにもまだ通じないでしょう--しかし、その人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられていることは誰も疑わないことです--”その人の本質にかかわらない”--) 教会に行くときだけ教会の顔になるのではいけない(教会と毎日の生活が一本につながっていることが大事) 雨宮いくぞう(56歳でガンで亡くなる--手記--たとえすべてが不幸だと思わざるを得なくとも神のなさることは最善なのだ--今、自分がこの病気にかかったのも自分の人生にとっては最も善なることである--神はその時を選びたもうたのだ--私のこの苦しみを通して何かをなさろうとしているのではないか--)


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