1999/09/26
「神の奴隷」 テモテ 2:1〜13
(MP3)
主題(捧げもの) 十分の一献金(--自分と神様の関係として生きる”神の奴隷として生きる”--十分の一とは惜しいなと感じる金額と理解すればよい--私を生かしているのは金か神か私は何によって生きているのか--礼拝のクライマックスは献金である”自分をどのように捧げるのか”--わずかばかりのものですが御用のためお使いくださいという祈り、またわ、私のレプタ二つですがという祈り”挨拶代りのようなもの”は神に対して慇懃無礼である--レプタ二つを捧げた女性は自分の全部を捧げた。それと比べることはできない--) ローマ人への手紙(罪許されたもの”享楽的な生活を送るもの、いやいやそれではだめだやはり規則が必要である”このように考えていた人たちに対する注意) カールバルト(--洗礼を受けたことは極めて危険な出来事であってその現実の光と影とが洗礼を通して人間の上に降りかかるのである--エルサレム郊外の十字架上で死んだのはイエスキリスト一人ではなく彼と共に私も永遠に死んだのである--復活したのはイエスキリスト一人ではなくこの人間もまた彼と共に死者の内より永遠に復活したのである--) 竹森満佐一牧師(神学者--洗礼とは--帰化したばかりの外国人のことを考えてみることができる--目の色は変えられず--味噌汁は嫌いでパンばかり食べているかもしれません--日本人の気持ちにもまだ通じないでしょう--しかし、その人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられていることは誰も疑わないことです--”その人の本質にかかわらない”--) 教会に行くときだけ教会の顔になるのではいけない(教会と毎日の生活が一本につながっていることが大事) 雨宮いくぞう(56歳でガンで亡くなる--手記--たとえすべてが不幸だと思わざるを得なくとも神のなさることは最善なのだ--今、自分がこの病気にかかったのも自分の人生にとっては最も善なることである--神はその時を選びたもうたのだ--私のこの苦しみを通して何かをなさろうとしているのではないか--)