1999/06/13 「癒しの霊」 ローマ 8:26〜30  (MP3)   
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ 日本の映画監督「あの夏の日とんでるおじいちゃん」--年をとっていっても、知っていることよりも知らないことに付き合ってゆくことが大事--永遠の未完成、私達が生きるということは徹底して未完成”やれるだけやった”のままである--) 聖霊をどのように理解したらよいか戸惑いがちです(聖霊のただなかで生きている 聖霊”神秘的なものと限らない”によって生かされているから人間らしく生きられる 祈ることのできないわたしたちをとりなして下さっている) パウロの異邦人伝道(エルサレムとの決別があった 律法”道徳”に完全に生きられることはない) 重兼芳子(「癒しは沈黙の中に」--長血を患っていた女性を自分の身に置き換えた--私も彼女のような信仰を持ちたいと願った”私にも答えが返ってくることを願った、しかし、答えはなかった”--お前は生きている価値があるのかという思いにさいなまれていた私--大群衆を見つめているイエスの目が私をも見つめているのを感じるようになった--いつのまにかイエスの答えを気にしないようになった--振り向いてくださったイエス様のまなざしが私を捉えてくださるだけでわたしは安心です--いつの間にか私の肩の力が抜けていた--) 藤木正三牧師(--長血を患っていた女性をイエスは意識していなかっただろう--彼女が触った力を感じた--彼女がどれだけ一般的にいう信仰が優れていたか、または聖書の知識があったのかは何とも言えません、よいことをしたかも関係ありません--助けてくださいという一念が信仰です--信仰の正しさを図るものは正しい教理ではなくてお助け下さいの一念あるのみです--あなたの生きかたはそれでいいのですよとイエスは言われた--癒しとは必ず病気が治ることばかりではない、病気のただなかであっても平安が与えられていることが癒しです--)  聖霊を感じようとする努力ではなく、信じるようにしましょう

1999/06/20 「新しい関係の創造」 ガラテア 5:1〜15  (MP3)   
マルチン・ルター(--キリスト者は王なのだ--キリスト者はすべての人に仕えるしもべであって誰にでも服する--キリスト者の自由--キリスト者は自分自身おいては生きないで、キリストと隣人において生きる。キリストにおいては信仰において、隣人においては愛によって生きる--) 自由とは不自由の受容 中嶋正昭牧師(韓国キリスト教民主化闘争) 自由だと言われた時、何をしてよいかわからないのが人間である(割礼に寄りかかりたくなる 矛盾の同居を認める 不自由であることを認める) フーテンの寅さん(--無銭飲食した年寄りを同居させた--我儘なことを言い始めた--誰がこのおじいちゃんを責められるか--)

1999/06/27 「イエスのように」 テモテ 2:1〜13  (MP3)   
モルトマン(現代は死んでいる 無感動の時代 業績や成果が上がることに夢中になっている--感情障害や無感情をもたらします--愛すること、悲しむことが出来なくなります--ただ儀礼的に笑うだけ--深い悲しみもよそ事--) つらいこと悲しいことを避けよう(閉じこもってしまう かかわりを持たなくしてしまう 迷惑をかけないようにしようと努力してしまう 楽になる生き方ばかり追求する) キリストを思い起こす(苦しみをしのびなさい 耐え忍ぶならキリストと共に支配するようになる キリストの兵士は労苦と辛さを共にする) 一粒の麦が地に落ちて死ぬということは自分が滅びてもいいという覚悟をもつことです(口先だけの関わりにならない) 持ちたくない苦しみや悲しみを背負わせられることがある(耐え忍ぶとき イエスから招かれている時) 私たちの低俗さに合わせて下さる神 遠藤周作(「生き上手 死に上手」--わたしはあなたの人生の脇役--主役を引き立たせる--自分の人生で主役になっている我々も他人の人生の中では脇役である--女房に対しておれお前のわき役だったんだなと言ったことがある--むっとしたことがあっても”脇役、わき役”とつぶやく--) 伴奏(目立ってしまってはダメ 人に合わせていこうとする努力が必要 愛するということは伴奏者になること) キリストは私の脇役


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