1999/04/18
「信じないままで」 マルコ 16:9〜18
(MP3)
まだに実現しない教会建築(--神よりの待ったをかけられている--会堂を持つという事だけが目的になって永山教会の目指すものという大事なものが失われてきた--会堂を持っていない現状を仮の状態と思い込んでいることである--何もかもがさしあたってと臨時にことをすますという傾向があったことを告白しなければならない--不便だから、安定した気持ちで礼拝したいとか地域にその存在を示すという答えだけでは主はお許しにならないのではないだろうか--自己中心すぎる--根本的に重大な目的があった--すべてのものの祝福の元となる--散らされた教会がしっかり生きていく”集められた教会でない、集められた教会は完成の時を待てばよい”--小さなキリストとして生きる--世界の問題の共有--プロ”牧師”に任せれば信者は集まるのか--プロの手口で集められた西欧の教会を見て下さい、その大半が経済発展途上国をほしいままに搾取し、現地の宗教と文化を破壊し、戦争のための武器を製造、輸出しては死の商人の役割を果たしてきたのです--それらの国の多くの政治リーダーは敬虔なクリスチャンです--少なくとも幼児洗礼を受けている人たちです--) 本田哲郎神父(--福音とはいかなる条件も無い救いと解放の知らせです--イエスは条件を付けませんでした--仏教徒は仏教徒のまま低みに立って見直すなら福音の何たるかがわかるはずです--) 悔い改めとは視点を変えることです(--神の視点に立つ--イエスは一番低い場所とされるヨルダン川で洗礼を受けられた--低みに立てば全てが上にあるとわかる--イエスはその手本を示された--キリスト教が絶対というときそれはオウム真理教と変わる所がありません--) 普段の生き方が誰かに影響を及ぼす 高見沢順子の受洗の話(「長く生きてみて分かったこと」大和書房 夫の田川水泡のもとに長谷川町子が弟子入りしてきた--町子の両親は日曜日には教会に出席させてやって下さいと頼んだ--水泡と高見沢順子は町子と教会に行くようになった--町子の態度、振る舞い、行為が影響して後年クリスチャンとなった--) 教会員の交わり(--戦うもの同士の交わり--生き生きした教会となる--うまくやってゆこうではない--どれだけ人のために時間を使ってきたか--)