1998/03/07 「自分を否む道」 マルコ 8:31〜38  (MP3)                  
主題(神の国王受難) 八木重吉(「私の詩を読んで下さる方へ」”どうして詩を書くか”--裸になって飛び出し、キリストの足元にひれ伏したい、しかし、私には妻と子があります。捨てることはできるだけ捨てます。けれど、妻と子を捨てることはできない--ここに私の詩があります。これが私の生贄であり--これらを私の血を浴びている--必ずあなたの肺腑へ食い下がって涙を流す--) 自分を捨て自分の十字架を負うて私に従ってきなさい(重吉は自分の痛みを詩にしている 恥ずかしいことでもある) あなたは生きる神キリストです(辺境の地にあって生きる途上にある地によって大切な告白がなされた エルサレムから最も遠いところでこの告白がなされた) ペテロはイエスからサタンよ引き下がれと言われた(あなたは神のことを思わず人間のことを思っている そう思わずにいられないほどにペテロの愛情がイエスに肉薄してイエスをぐらつかせるものだった) 自分を捨てる(神に従うために自分にノーという) 国連事務総長ダグ,ハマーショルド(「道しるべ」みすず書房--私ではなくして私の内なる神--運命を受容つくし、自分自身に無関心になりおおせたとき成熟に達する--神の手に自己をゆだねたものは人々に向かって自由に振舞うことができる--) 結果を期待したり予測する必要はない(自分が死ねばよい 恥をかけばよい 前向きに諦めればよい)

1998/03/14 「落胆しません」 マルコ 9:2〜8 (MP3)                    
主題(神の国の王 変貌) 山上の変貌は慰めの記事である--雲間から福音の光を垣間見せている 八木重吉(「冬」--長いこと考えてきれいに諦めてしまって外へ出たら、夕方近いカバ色の空が冷たく張りつめた雲の間に見えて本当にうれしかった) 高い山に登り低められる 松浦五郎神父(カトリック雑誌「あけぼの」聖書エッセー --自分を完成することしにしか目がゆかない富める青年”財産全部を捧げることはできなかっただろうが貧しい人のことを考えるきっかけになったのではないか”この男は悲しみながら去って行ったが救われたのではないかと思う--イスラム教徒をたくさん殺した男が私は地獄行きだとガンジー言った、ガンジーは”あなたが救われる道があると言った--出来たかどうかを問う前にそうしたいという意思を持ち、ゆっくりでもその道を歩み続けることがイエスの弟子である--) 宗教とは自己の完成を目指すものではない

1998/03/21 「捨てた石が---」 マルコ 12:1〜12  (MP3)                    
ブドウ園は誰のもの 正しいことを追求してゆくことが正しいという思いは差別を生みやすい(現代の教会で起こっていることではないか) カナの家で働いている佐藤さんの話(カトリック雑誌「あけぼの」 障碍者の職業訓練に励んだ、励めば励むほどメンバーの顔色が暗くなってきた”劣等感を持つようになってきた”--ジャンバニエさんが来られたとき相談した--バニエさんは大事なのは仕事ではないと言った--だいじなのは食事だと言った--食事のときに本当の人間になれる--静岡県のラルシュカナの家共同体に入った--”佐藤さんの反省”私が優しい人間だったらいらいらしない、いらいらするのは効率を重視し、こうすべきだという世界に生き、勝ち抜いてきた人間だからだ、それが自分の弱さだとはじめて気づいた--今までの私は建前を大事にしていた) 自分を捨てるということは神様にすべてをゆだねることだ

1998/03/28 「石の声となって」 ルカ 19:28〜48  (MP3)                    
主題(十字架への道) ルカによる福音書の特徴(救いはエルサレムから) マルコによる副申書の特徴(救いはガリラヤから) エルサレム入城(子ロバに乗った平和の君--人々”弟子達”が服を敷いてイエスの通る道を整えた--) モルトマン(アウシュビッツでの処刑--公開処刑を見ていた人が”神は今どこにいるのか”と叫んだ--ビーゼルは”神は今ここにいる。神は絞首台のあそこで吊るされているのだ”という声を心の中に聴いた--) 原崎 百子(「わが涙よわが歌となれ」--わが苦しい息よわが信仰の告白となれ--わが涙よわが歌となれ--呼吸困難よ、咳よ賛美せよ--最後まで主をほめたたえてあれ--)


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