1999/01/10 「私の仲間になってくださる」 ルカ 3:15〜2  (MP3)             
主題(イエスの受洗) 神の子がなぜ受洗しなければならなかったか(私たちの友となろうとしていらっしゃるから 霊と火のバプテスマとは 愛において作り変えられ不純なものがすべて焼き尽くされて新たにされて愛に向けて出発する バプテスマは神様からの委任状である) 洗礼を受けるといろいろな制約がつくのではないか(今までの私たちに問題がある”制約された生き方をしてきたから”) 本田哲郎神父(--バプテスマには本来”浄、不浄”という概念はなかった--洗礼受けたら窮屈そう清くなったわけでもないのに--身を沈める--イエスは当時”浄くない”とされた人たちと共に歩まれた--) 悲しんでいる人は幸いである(山上の垂訓 イエスの弟子として悲しんでいる人”力なく何の役にも立っていないことを知って悲しんでいる人”は幸いである) 入佐明美(いりさあけみ 大阪・釜ヶ崎のケースワーカー 「ねえちゃんごくろうさん」 岩村昇先生と出会う、無力感にさいなまれていた”神様がいるなら何とかしてやと言われた” 無力な私が釜ヶ崎の住民から励まされる、釜ヶ崎の人たちがみんなイエス様に見えるようになった) 人のせいで苦しんでいると思うと体調を崩します(まじめな人ほど陥りやすい)

1999/01/17 「私を手伝って」 マタイ 4:18〜22  (MP3)             
主題(最初の弟子たち) 賀川豊彦牧師(お前なしにはやっていけないというイエスの言葉にいつも突き動かされていた) マタイによる福音書の特徴(イエスの愛のある権威ある表現を使う お招きの前にはじっと見つめるイエスのまなざしが先にある) 石川牧師は伊丹教会との出会いにより変えられた(北海道の開拓伝道を志した 松沢教会をやめるときに牧師にだけ依存しない新しい教会を作ることを決心した) 三浦綾子(エッセイ集岩波書店「命 光」”聖書と私”--クリスチャンなどにならないと言っていた私--もし神を知らなかったらどうしたろう--むなしさを感じるときは大事なときだ--むなしいというのは自分の生き方が間違っているとするどく直感している証拠である--もう一つの自分の心が”生き方が間違っている”と自分自身に呼びかけているといっていい--)

1999/01/24 「霊と真理の礼拝」 ヨハネ 4:19〜26  (MP3)             
サマリアの女(異邦人扱い 平凡な人たち ユダヤ人から見たら混血人 イスラエル神殿建設にも反対した 昼間の水汲み”大概は朝早く済ませる”は人をはばかることがあるのだろう このような状況の中でイエスは”水を飲ませて下さい”と頼んだ。ここから会話が始まった”頼み上手” 人をはばかるような女性が村の人に自分の救いを知らせた) 愛はありがとう(いつも自分を低くしている) ヨハネによる福音書の特徴(今このとき神の国は来ているを主張している 排除の働いたた礼拝は本物”霊と真理を持つ”ではない) 森野 善右衛門先生(「礼拝と招き」--礼拝に儒教的ニュアンスが入っている--尊崇の念”礼儀”の表し方に重点が置かれている--) 岸本 洋一(キリスト教礼拝辞典 礼拝はWorthship”値ある”と訳されている --サービス”神の奴隷となる”--謙虚になる姿勢である--自分を修養し徳を高める儒教的なものではない--) 礼拝(厳粛性を求めてはいない 何に向かっているかをしっかり確認する作業である 誰が私の人生を完結しようとしているのかを確認する 私はあなたの奴隷です全てをお任せします あなたのところに帰ってきます 説教”講演”が主体ではない) 献金、献身(私の体を捧げます お賽銭ではない 自分にとって少し痛いなと思うくらいのもの 一番大事なものを捧げる)


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