1998/04/05 「信と不信の同居」 マタイ 21:1〜11  (MP3)                    
受難週(信じますと告白した私たちが問われています 人として生きられたイエスの苦しみを理解する) 星野富広(蟻の目--私が何に見えるか--謙遜--) エルサレム入城(平和の王としてロバに乗った マタイの福音書にはは二頭のロバとなっている 二週間後にはイエスを十字架につけよと叫ぶ 調子のようことを言う群衆を私に置き換えて読む) イエス様も切れることがある(宮清め 暴力? 神殿が機能していない) 柔和(マタイだけがこの言葉を使う 私は柔和”苦しめられたもの”) 八木重吉(--キリストが解決しておいてくれたのです。ただ彼の中に入ればいい。彼に連れられて行けばいい--)

1998/04/12 「後ろに立つイエス」 ヨハネ 20:1〜18  (MP3)                  
マグダラのマリヤ(イエスが葬られた場所を知っていた 墓が空であったのを知った) マリヤは墓の外に立って泣いていた(復活のイエスとの出会い 後ろにいたイエス”将来をしっかりと見つめている” 過去が前、将来が後ろ”旧約の考え方”) 砂山節子牧師(いさやませつこ 戦前ご主人と二人の息子さんを失う ご自分は失明、このとき--数えてみよ主の恵"石川牧師が歌っています"--という聖歌に支えられた--失ったものに気を取られたが”耳が聞こえる、口も動く、足も動く”--でもまだ元気が出なかった--聖句”テサロニケ五章--これキリストによりて神が汝らに求めたもうところなり”--この聖句により希望が与えられた)

1998/04/19 「魂を生かす方」 ヨハネ 6:35〜40  (MP3)                  
主題(命のパン これなしには生きられない) 八木重吉(私の詩よついに一つの称名”自分の信仰告白 インマヌエル アーメン”となる --憤りがあったらイエスの名で溶かそう、弱くなったらイエスの名で盛り上がって強くなろう--汚くなったらイエスの名で綺麗になろう、死の影を見たらイエスを呼んで生き返ろう-- 彼が生きているうちに出版された詩集は一冊だけだった) ヨハネによる福音書の主張(地上を歩かれた神の子 イエスはどこからきてどこへ行かれるかをしっかり見て信じた者が永遠の命に入る パンの奇跡の後に湖の上を歩かれるイエスを書くことにより神の子であることを示した) こちら側の状態によって救われるのではない(神はすべての人を救う) フジョフスキー神父(「主をほめたたえよ」 --子どもの頃より聖体拝領にあずかってきた--キリストを向かえ入れるためである--食べ物と同じように毎日いただいている--神との契約を確認するためである--) 信仰告白は”ありがとうございますだけでいい、献金のたびに心の内側で葛藤があってもよいが行動は献金に現れる”


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