1998/02/01 「神の業のチャンス」 ヨハネ 9:1〜13  (MP3)                   
相次ぐ心中(年老いた親”人に迷惑をかけていると思ってしまう”を子供が殺す”看病疲れからか” 神様がどんなに悲しんでいるか) 事件を起こした子どもたち(取り締まらなければという発想に走ってしまう、命の大切さを教えましょうという発想が出てくる 何が子どもたちをいらいらさせているのかを考える必要がある) 病気が罪の結果だと思う事がすでに罪です(障碍を持つことがいけないこと病気であることがいけないことと思う事が罪です) 親はもっと無責任になったらいい(子供がどこの大学に行こうが全部子供の責任だと思い大人になるまでは親が支援する) 道元禅師(光に向いたら影が出来る”片面だけに目を向けることが差別の根源です”) 信じることが善いこと信じないことは悪いことと分けて考えないほうがいい 重兼芳子(アメリカのホスピスを見学に行った 目のガンを持つスティーブに出会った”明るさに驚いた”  スティーブは今も私の中に生きている 「癒しは沈黙の中に」 --目が見えないことは因果応報”人間中心の考え方 諦めるしかない”と考えることは分かりやすいのですがそこからはすこしの発展も広がらない--イエスの言葉”神の側から見る”は可能性に満ちている”神の業が現れるためだ”) 私だけがなぜこんな試練に(なにか神があなたにお示しになっていることがあるのではといろいろな可能性について語った 自分が何をしたらよいのかがだいぶ見えてきた来週から早速やりますと言って帰っていった) 闇からは目をはなしたい(闇は闇のままではない) 自分の弱さを客観化する(神様のわざが見れる) 教会は世の光

1998/02/08 「気づきなさい」 ルカ 8:4〜10  (MP3)                   
主題(教えるキリスト 私を愛している神様が何を言うのだろう) 大王国師(説法している時釈尊”しゃくそん”はどこにいるのかと聞かれたとき「照顧脚下」”足元を照らしてよく顧みる”と答えた) 喩(自分の姿を自分で検証してみる) 種まきのたとえ(聴いて実を実らせる人と、実らない人がいる 道端に落ちた種”上の空で聞いた人” 石地に落ちた人”長続きしない感激屋さん” 茨の中に落ちた”利害、打算が先にある人”) ハンター(アメリカの神学者 「イエスの例えの意味」 --耳だけで聞くこともできる”小道に落ちた種”--頭で聞くこともできる”速やかに蒸発する”--よい運動に関する感動的な訴えを聞く”途中で邪魔が入ると何を聞いたか忘れてしまう”--臨時ニュウースで自分に関することを聞いた”全存在を持って聴く”これが福音が要求している聞き方である) 小学六年生の作文(鏡の中に私がいる 私の目に私が写る ひとりでにニコニコしてくる--鏡の中の私が何か話しかけてくる すると素直になる) 私の中に私がいる(お前はダメだダメだという私がいて拍車をかけてくる もう一人の私は泣いている ニコニコしている私”それでいいんじゃないの”) 自分に気付いた時に自分が変わる 百倍の実とは自分を笑い飛ばせるようになることである(人との間に潤いが生まれます) もう一人の私と一緒に聴く

1998/02/15 「阻害からの解放」 マルコ 1:35〜45  (MP3)                   
主題(癒すキリスト) 本田哲郎神父(「小さくされた人々への福音」 --よい子になるように努力しそれなりに認められて絶えず背伸びしながら歩んできました--フランシスコ会の日本の管区長にもなりました--しかし心では自分を偽り、人を偽り、神様を偽り、神父になり説教して得意になり--こんな司祭主導で動いている教会でよいのだろうか、宗教とはそういうものだろうかと思い悩んだ--) 釜ヶ崎ふるさとの家での本田哲郎神父(--夜回りの仕事を手伝った--リヤカーを引いた--ホームレスの人に毛布いりませんかと言った--この経験が神父の生き方を根底から変えた--イエスキリストの生き方はこのようなものであったかと思った--聖書をもう一度読み直した--今までの読み方が間違っていたとわかった--) 聖書の翻訳(イエスは大工の息子と訳されていたがその頃軽蔑されていた石工の子であった) イエスの癒し(その人の側に立つセラピーを伴う 阻害からの解放) 深く憐れんで(はらわたを突き動かされて、怒って) 本物の信仰は説明が要りません


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