1997/04/13
「共に食べるイエス」 ルカ 24:13〜35
(MP3)
主題(エマオへの道 正確な場所は分からない) 石島三郎牧師(「クリスチャン」 クリスチャンは大嫌いだ飾りすぎている 言葉を粗末にしている”神に対しての恐れがない” 厚化粧で誤魔化しているのです。白く塗りたくったのが自分の素顔のように思い込んでしまって自分の肌の黒さを忘れてしまっていい気になってしまうことです--教会の中に一番嘘が多い--) 神様を困らせる傲慢な献金の祈り(このお金を使ってくださいなどとは傲慢な言い方だ 私を使ってくださいとへりくだる必要がある) うそのない教会、人が来たくなる教会(伝道は牧師の説教でするのではなくて、信徒の生き方と交わりの姿が伝道につながっていく) 青野
太潮(あおの たしお、日本の神学者「どう読むか聖書」 --ただイエス様を目で見ていれば信じられるという事とは違う--真実に復活がわかるということは決してこの目で見この手で触れるようなな形でそれがわかるということではないのだ。そのような形で復活を追い求めているかぎりはたとえ復活者が目の前にいてもそれがわからず--本当にそれがわかった時にはもはやその姿は目には見えないのだ--) 十字架のキリストが本当に見えた時に復活のキリストが見える(目に見える姿でのイエスは必要なくなった。自分の足で立つことができるようになった) ラルシュ共同体(ジャンバニエ 障碍者と一緒に食事”生きる根源”を大切にしている 「ひとつとなるために」 --許しが大切--徐々に恐れを信頼に変えていく--私たちは許されたから許すものに変えられていかなければならない--どうしたら許せるのか教えてあげよう--イエスがおられるなら不可能が可能になります--)