1997/03/02 「神からの問いかけ」 マタイ 16:13〜28  (MP3)                  
藤木正三牧師(京都御幸町教会 信じる者に与えられる救いとはいったい何なのでしょう それは苦悩や罪から解放されることではなく --耐えて立派に生きうるように強くされることでもなく苦悩や罪の中でそれらがどうでもよいこととなるほどに生かされて今あるという事実があって--事実に単純になれることです--イエスが父よと単純に神を呼んだことはこのことを示します--) 人の子(最後の審判の時に神の代理として現れるもの メシヤの別の呼び方) ペテロのイエス観は(始めイスラエルを復興する王というイメージがあった イエスが死刑だなんて信じられなかった サタンよ引き下がれとしかられた) 苦しみや災難は嫌だでは自由に生きていない(どうして私ばかりこんな目に合うのですかになる) 重兼 芳子(しげかね よしこ 「癒しは沈黙の中に」 キリストの十字架の死は--救いと愛へと見事に転換された--人間の苦痛を背負って下さる最高裁善の癒しなのである--愚かさも弱さもキリストのとりなしの祈りによって許され喜びと感謝へと変化していくのである) 栄光と敗北(全人類の救いとなる) 長谷川貞子( 自分のためだけに生きる人生なんてつまらない人様のお役にたってこそ人生だという話に貞子さんは”老人には生きる意味はないのか” 飼い犬”コマ”は老境に入っています--耳も聞こえず目も見えなくなりました--臭覚でわずかにさとる--しかしその表情や動作にはいつも喜びがあふれています--コマは何もなくなったのに喜んで毅然としているいる--老人のお手本だ--本人の知らないところで価値を与えられている不思議さを考えずにはいられません--) 失っていながら喜んでいる姿(大きな存在です) 信仰を持つ(良い悪いはどちらでもよい 神はどちらの状態にあっても呼んで下さる)

1997/03/09 「見捨てない神」 マタイ 17:1〜8  (MP3)                  
主題(神の国の王 山上の変貌) 変貌(事実の詮索は意味がない 旧約の完成者としてのイエス モーセの十戒に対応 高い山は聖なるところ) 島静子牧師(愛実”あみ”障碍者福祉作業所 重度障碍を持った陽子さん 教会をやめざるを得なかった ラルシュ”箱舟”共同体に参加した ジャンパニエ神父の印象”イエス様のようだ” 神父は陽子ちゃんに”あなたの苦労は分かっていますよという目だった” 陽子ちゃんは神父に花束を渡す役を頼まれた 神父は渡された花束を持って陽子ちゃんの目を見つめていた陽子ちゃんはにこっと笑った”奇跡だ”と感動した 陽子は気高い女性のように見えた 全世界が私を罵倒したとしても私を受け入れてくれる人がいる、この思いが私に安心感を与えてくれました--自由になりました--) どんな人でも尊敬できる クローン(無性生殖による生命体) 命は神が作る(本来神の領域の命を人間が銃に作り出すことの問題 人間の都合によって命を支配するようになる。価値のない者を捨てようとする。優秀なものだけを作る?”破滅にいたる” 神様が作ったという聖書の言葉を科学的な対立武器として使う必要はない) イエスはどんな人にもひざまづいて接してくださる

1997/03/16 「死ねば活きる」 ヨハネ 12:20〜26  (MP3)                  
主題(一粒の麦 愛の秘訣 死ねば沢山の実を結ぶ) C.S.ルイス(「影の国に別れを告げて」--信仰とは傷心に対する保障ではない) 神様は傷着かない保障をしているわけではありません(傷つくときには傷つきます) 榎本保郎牧師(--死ぬことはある意味で無責任になることである 死ぬことは神が責任を持って下さることを信じてゆだねることである--) 自分が頑張っていると思うと他の人の力が小さく見える島静子牧師( マスクをして”愛実”に出勤した メンバーが大丈夫という目で見つめてくれた--自分が小さな子になって、彼らが大きな大人になった気がしました--仲間を配慮し自分が欲しいもので譲って遠慮しながら日々を暮していることが分かるようになりました--輝かしい資質の存在です--私に任気忍耐する新しい理解が生まれました--人間は人に支えられていることで人を支える存在--ようこさんが亡くなった時、澤田和夫神父に電話した--”神様が今までようこちゃんを生かして下さったのだからこれからも生かしてくださいます。その悲しみがようこちゃんと出会う所です”--豊かな日々を味わうようになりました--) 自分が自分がと言う思いから離れて”死なせて”みる シャルダン(--人生にはただ一つの義務しかないそれは愛することを学ぶことだ--)

1997/03/23 「言い訳無用」 マルコ 11:1〜11  (MP3)                  
ろば(平和の象徴 ロバは穢れた動物とされていた。このロバにイエス様は乗られた) 清水啓三牧師(しみずけいぞう ロバ”虚栄のない動物”雑用をする動物--人生は雑用の意味づけで決まるものかもしれない--信仰とはどのようなものかを神が人に対して示そうとされる。ここに福音がある--私たちが神を信じるのではない神が私たちを信じるのだ。私たちがイエスキリストを信じるのではないイエスキリストが私たちを信じるのだ--) ベタニヤ村(悩むものの家、貧しいものの家 マルタ、マリヤの家があった イエス様はよくここに帰って休まれた) 教会が建前だけとなってしまったとき敷居が高くなる エルサレム入城(苦難への道)

1997/03/30 「無意味が生きるとき」 マルコ 16:1〜8  (MP3)                  
イースターの意味(キリストの復活) 死んだけども生き返った(不死鳥のような力を持つイエス様と思ってはならない 十字架上で”わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか”と叫ぶ必要はなかった 強いイエスを強調してしまい誤解を与える恐れがある) マルコによる福音書(16章8節以降はあとから別の人が書き加えた マルコは8節で終わらせたかったのではないか) マルコによる福音書(16:8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。)→ 荒井献(墓が空だったというのはイエス復活の根拠となっていない イエスとのガリラヤでの出会いが--イエスの復活を信ずる契機となったのである) ガリラヤでの出会い(普段の生活の場で許されるはずのない裏切りが許された 私にとってのガリラヤはどこなのか) 復活(見捨てたと思った神が起こされた 十字架で死ぬほどの罪も許される 神が私を受け入れて下さったことを味わう イエスの人格にもう一度出会う) 今の教会はイエスが目指したものと違うのでは(敷居が高い イエスのメッセージが生きている所となっていないのでは) 山住 正己(やまずみ まさみ 東京都立大学総長 「送る言葉、迎える言葉」岩波ブックレット --博士論文授与式の時居眠りしてしまった--定時制高校の卒業式--知恵おくれのお兄さんをもつ生徒がいた--自分が問題を起こしたらお兄さんがいるからだろうと言われるので頑張った--これゆえにお母さんに八つ当たりして泣かせたことがあった--こうゆう時に笑顔で慰めてくれたのは兄であった--人生の教師だと思うようになった--差別社会をなくそうと思った--くじけそうになった時兄の笑顔を見ながら”アハハ”と笑いながら頑張っていきたい--) イエス様の受洗は私たちの仲間入りするという意味が込められているのではないか


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