1995/05/14
「誰が真理か?」 ヨハネ 14:1〜7
(MP3)
本物に到達した人は謙遜である(--あらゆる宗教において--他のものに聞こうとし、あらゆるものから学ぼうとする--)
キリスト教が絶対であるとするなら謙遜さを失う(--イワシの頭も神様となる--イエスを神と薄っぺらなもの”独善的なもの”で偶像としてしまった--キリスト教2000年の歴史を洗い直す必要がある--聖書を批判的に読むことも必要です--これこそ一字一句正しいと読むことは間違いにつながる--)
アレテーヤ”真理--隠れていたものがあらわになる”
藤木正三牧師(「福音はとどいていますか―ある牧師と医師の祈り」--自分の目にも隠れていることは存在の不思議さです。私はどこからきて、どこへ行くのか---これは誰の目にも隠れています。そして、そこに神がおられるのですからその不思議さを思いつつ生かされてあるものらしく生きるなら、たとえ神について知るところが何もなくても人は十分に神を知っているとよいのです--ものらしく隠されている所に気が付くことは神を知ることです--真理の前に立つとは自分が問われていることです”答えを探すことではなく自分に問われていることを探す姿勢”--イエス様を見ると神が透けて見える--イエスは一人の人間です”神に祭り上げてしまうと人とは見えなくなります”--イエスにはこれぞ命とおもわしめる曇りのない動きが見えます--)
住むところ(--とどまる--イエス様はあなたの碇を下ろすところを用意している--)
人の罪が気になる(--最低のランク--人の罪の前に立っている--)
あの人も自分と同じだと思う(--まだ自分の前にしか立っていないランク--)
人の罪を見たとき(--私の罪が最大だと見えるとき神の前に立つ状態です--パウロは私が罪人の頭ですといった--信仰を持っていない人を罪人と断じる人は神の前に立っていません--)
私が召された(--最低の人間だからです--)
伝道集会(--現在召されている人たちが自由”へりくだる”になっていないなら集会は無意味です--来なさい来なさいといわなくとも人が自然に来るようになることが必要です--どのように人集めをしたらという方法論ではありません--)
現代人が求めているもの(--安心して錨が下せる場所--)
信仰者(--信心深く振る舞う必要なし--人まねをしない--自分の個性”私は私”のままで神様がお用いになる道を歩んでゆく--)
キリストの日にわかるから今わからなくてもよい(--確かな道案内がついているので今、私はどこを歩いているかわからなくてもよい--イエスは道である--)