1995/04/30
「迷うのが健全」 ヨハネ 10:7〜18
(MP3)
主題(良い羊飼い)
藤木正三(--神を信じるという人が神を信じているわけではありません。神に生かされている人が神を信じているのです。神に生かされている人は神について語らないで神に生かされている自分を語ります。信仰の問題は神の問題でも人間の問題でもなく自分自身の問題です。信仰を脅かすものは従って無神論でも科学でもなく、多忙な生活でも、物質的欲望でもなく、道徳的混乱でもないのです。それは自分を批判、吟味することに時間と労力とを費やすことを無駄と考えて、簡単に自分を通過してしまうことです。救いだけを語る宗教は人間を侮辱しています。裁きだけを語る宗教は人間を過信しています。裁きと共に救いを語る宗教は人間を甘やかしています。信仰において神が与えようとしているのは救いでも裁きでもないのです。それは明晰です。安住しようとしている足下を崩し、迷うべき本来の私の姿を自覚せしめてくれる明澄なる人間への洞察です。信仰のたまものは迷いがなくなることではなく正しい迷い方です。--)
信仰(--問題が解決すると思わない”問題が解決しない人は信仰がないとなってしまう。そのようなことはない”--行き詰まることがあるが望みがある--自分を通過させない”目の前に神様がいらっしゃるのを忘れて頭で考えてしまうことがある”--感性を大事にする--)
よい羊になろうとする必要はない(--私は羊である--羊は迷いやすい”目先しか見えていない。そのように作られている”だから私たちには良い羊飼いがいらっしゃる--)
パウロ(--自分の弱さを誇る--行き詰まりに甘んじている--自分を裁かない--)
上林順一郎(--早稲田教会--「なろうとしてなれないとき」--神が働かれる場--新しい自分が与えられるとき--”なろう”とは自分が勝手に抱くイメージです--挫折や敗北ではなく、実はキリストにあって新しい自分を得ることのできるときだといえる--)
内村鑑三(--「目的の進歩」--余が欲する者にはなれなかった、余は今は何者にならんとは欲しない--余が欲するのはイエスが人のなすべきこととして示したまいし業である--)