1995/02/19
「心まで元気に」 マルコ 1:35〜45
(MP3)
社会的差別ある病(--エイズ--ハンセン氏病”今では治る病気です”--精神病--)
重い皮膚病の人(--旧約時代、健康な人のいるところに近づけなかった--それでも私を哀れんでくださいと言ってイエスの元に近づいてきた--イエスは深く哀れんで”怒ってとも訳せる”--イエスはなぜこの人が差別されるのかと怒った。そのあと”清くなれ”といわれた。そして語調激しくここを立ち去りなさいと言われた--なおったことを祭司に見せて社会復帰できた--)
イエス様の癒し(--心の癒しにウエートが置かれている--)
重兼芳子(「癒しは沈黙の中に」--癒しとはそもそもなんなんだろうか、イエス様の癒しで肉体が元通りになったかどうか私にはよくわかりません--人間の存在は肉体のみで成り立っているのではない。肉体と精神と心とで成り立っている。誰も近づこうとせず。誰からも愛されず。自らも死をのみ願っていた病人が。イエスの愛に触れたとき、病人の全存在がイエスの光によって立ち上がった。生命力に満ちあふれ。死へのみ傾倒する人生の行く先が生の方向へ転換し向きを変えられた--癒しとはこのようなものではないか--) 長いあいだ出血が止まらないため財産までなくし、人目をはばかるようになった婦人(--イエスの衣のフサに触れた--普通では触ってもわからないものだ--イエスは”誰か私に触った者がいる。力が私から抜けていくのを感じた”といわれた”わざわざその女がいたたまれないようなことを言った意地悪なイエス”--イエスの前に震えながら出てきた女は自分のことを全部話した”もう人目を気にしないでもよいようになった”--あなたの信仰があなたを救った--)
イエス様の意地悪(--一見そのように見えていてそうではない--深い深い愛に基づいている--心も体も解放する--)
私たちの現実に当てはめて考えてみる(--聖書のような特別ひどい現実ではないとしても何か気にかかるようなものがある--イエスに向かって”御心でしたら清めてください”と祈って手をさしのべる”そこに癒やしの希望がある”--どうして私だけがと自分で結論づける必要はない--)