お話の聞き方説明
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1995/02/05 「宿命から栄光へ」 ヨハネ 9:1〜12 (MP3)
 主題(世の光)
 私がそうなのです(--I am--目が見えないのは誰のせいか”悪因悪果なのか”--病気は罪の結果なのか--神の業がこの人に現れるためであった--人から見て不幸なのは罪の結果だと思うな--イエスは不幸なことに出会ったときの心構えを説かれた--私にだけなぜ悪いことばかり起こるの--不幸な出来事の裏には神の業があらわされることを信ずることだ--イエスのおられるところは光である”闇が変えられて光となる”--過去から自由になる)
 重兼芳子(「癒やしは沈黙の中に」--因果応報と考えるとわかりやすいが、しかしそこからは少しの広がりや発展もない--イエスの示された言葉は無限の広がりをそこに感じる--信仰するとは神の側から見ることが出来る目を持つことだ--”重兼さんは死の問題に関心を持ちアメリカのホスピスへ行かれた”ステーブ君19歳との出会う--彼は両眼がガンであった 失明寸前の彼は明るかった--抗がん剤の副作用でつるつるになった頭をさして、こんなになっても僕なのだといった--彼はガンの虜にはならなかった--彼から受けた影響は今も私に波及し続けている--運命に負けていない彼を見た--神は無価値”病気や不条理なこと”に見えることの中の真実を私たちに示される--人の目から見れば醜いこと、弱いこと、苦しいこと、愚かなことは無価値だろうけれども、神はそれらを上手に配置することによって無価値に見えることの真実の価値を私たちに示そうとされる。病気も老いも死も、私たちにとっては不条理そのものであるが聖書と共にそれが組み合わさると不思議な光を放ち始める--)
 自分が本心だと思っていてもそれが本当は建前であれば人を動かすことはできない(--クリスチャンは偽善者だと思われている理由の一つ--)
 私たちの価値観(--とらわれていると、あきらめか、傲慢かのどちらかになる--)
 呪いを祝福に変えられることは奇跡です
 人のせいにしないのが信仰です(--現実は暗くてもそれから解き放たれ自由となることが神の業です--自分のよいところ、わるいところに気づきバランスがとれた生き方が自由な生き方です--)

1995/02/12 「鈍感は最大の罪」 ルカ 8:4〜10 (MP3)
 天に座する者笑い給わん(--詩篇二章4節--神が笑うという意識が信仰--)
 マニアル宗教(--こうしてこうすると何とかなるという宗教--イエス様はマニアルどおりにはいかないことを示して下さった”だから譬えを用いられた”--)
 聞く耳のあるもの(--”気づきなさいよ”ということです--)
 譬え話(--聞いても理解できないようにと聖書にある--宗教的な心理は説明できない--)
 種まきの譬え(--イエスの宣教においても芽の出ない種がある--一見失敗してうまくいっていないように見えるけれど、結果は違う--100倍の実を結ぶ”当時の人たちにとっては考えられないほどの収穫”--自分にはどのような種がまかれたのだろうか--私は良い地なのだろうか”説明の限界がある”--マニュアルによって良い地にはなれない--)
 悟る(--自分に気づく--)
 松原泰道(--「観音経入門」--いつでも観音様が私を拝んでいる--人間が数珠をかけて観音様を拝むのはわかるが観音様が数珠を持って何を拝むのか--わたしの説明はここまでです”自分には限界がある”--どうしても説明できないものはあるのです--)
 私たちが祈るとき(--キリストは私たちよりもっと熱烈に祈って下さる--)
 伝道(--タイミングがある--それぞれに一番良いときが与えられる--人間にできることはチャンスをできるだけ多くもうけることだけです--)
 謙虚になるのでなければ宗教の意味はありません(--鈍感は最大の罪--)

1995/02/19 「心まで元気に」 マルコ 1:35〜45 (MP3)
 社会的差別ある病(--エイズ--ハンセン氏病”今では治る病気です”--精神病--)
 重い皮膚病の人(--旧約時代、健康な人のいるところに近づけなかった--それでも私を哀れんでくださいと言ってイエスの元に近づいてきた--イエスは深く哀れんで”怒ってとも訳せる”--イエスはなぜこの人が差別されるのかと怒った。そのあと”清くなれ”といわれた。そして語調激しくここを立ち去りなさいと言われた--なおったことを祭司に見せて社会復帰できた--)
 イエス様の癒し(--心の癒しにウエートが置かれている--)
 重兼芳子(「癒しは沈黙の中に」--癒しとはそもそもなんなんだろうか、イエス様の癒しで肉体が元通りになったかどうか私にはよくわかりません--人間の存在は肉体のみで成り立っているのではない。肉体と精神と心とで成り立っている。誰も近づこうとせず。誰からも愛されず。自らも死をのみ願っていた病人が。イエスの愛に触れたとき、病人の全存在がイエスの光によって立ち上がった。生命力に満ちあふれ。死へのみ傾倒する人生の行く先が生の方向へ転換し向きを変えられた--癒しとはこのようなものではないか--)  長いあいだ出血が止まらないため財産までなくし、人目をはばかるようになった婦人(--イエスの衣のフサに触れた--普通では触ってもわからないものだ--イエスは”誰か私に触った者がいる。力が私から抜けていくのを感じた”といわれた”わざわざその女がいたたまれないようなことを言った意地悪なイエス”--イエスの前に震えながら出てきた女は自分のことを全部話した”もう人目を気にしないでもよいようになった”--あなたの信仰があなたを救った--)
 イエス様の意地悪(--一見そのように見えていてそうではない--深い深い愛に基づいている--心も体も解放する--)
 私たちの現実に当てはめて考えてみる(--聖書のような特別ひどい現実ではないとしても何か気にかかるようなものがある--イエスに向かって”御心でしたら清めてください”と祈って手をさしのべる”そこに癒やしの希望がある”--どうして私だけがと自分で結論づける必要はない--)

1995/02/26 「なぜ怖がるのか」 マルコ 4:35〜41 (MP3)
 聖書の奇跡の解釈(--説明できるように語る理性的な語り方、そんな奇跡はない--このような目的で語られたものという説明--イエス様は神様なのだから何でもおできになる立場から語る説明はご利益宗教に陥る可能性がある--神が歴史に介入することの臨在を知る経験--私はここにいるということを神様があらわそうとしている--信じている人にとって意味のあるもの--自分の信仰が問われる--)
 嵐の湖での奇跡(--問題が解決してから、イエスは”信じていないのか”とおっしゃる--お叱りではなく、慰めの言葉である--)
 健全な信仰(--柔らかく受け止める--恐ろしいことは恐ろしいと感ずる信仰--信仰を持ったら死が恐ろしくなるということもない”弟子たちも恐れた”--信仰を持って何とかなるという程度でよい--)
 入佐明美”いりさあけみ”(-「ねえちゃんごくろうさん」--ネパールで医療奉仕活動をする岩村昇医師と出会い”釜ヶ崎行きを進められる”、ボランティア・ケースワーカーとして働き現在に至る--”神様がいるなら何とかしてぃや”といわれ、自分が生きているだけで罪という無力感にさいなまれていたとき”ねいちゃんみんなの愚痴を聞いてやって”と励まされる--釜ヶ崎の人たちがみんなイエス様に見えるようになった”神がそこにおられる。まさに奇跡である”--)
 河野進牧師(--「よみがえりの日」--教会から帰るときある人が車で送ってくれた、この人がキリストだとわかった時大きなお恵みに感激した--どうして今日までキリストが見えなかったのか--今日こそ私のよみがえりの日です、どこでもキリストにお会いできます--)
 そういう奇跡に出会えます



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