お話の聞き方説明
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1995/01/01 「必ず成る」 ルカ 2:21〜40 (MP3)
 明けましておめでとう(--去年のことは忘れて新しい年を祝いましょうというのは言いたくない、過去のことは水に流しましょうという発想につながる--良かったことも悪かったことも私たちの救いの完成にかかわっているので昨日のことは大事にしたい--)
 シメオンの賛歌(--安心して私は死ねるとは誰しも思う事である--シメオンはどうして自分が抱いた赤ちゃんが救い主とわかったのだろうということを詮索しても仕方ない--赤ちゃんイエスを見て喜んだシメオンはもう死んでもいいと思った--人生の出会いの不思議さを示しているのではないか--)
 今日安心して死ぬ(--救いを見ることである--)
 安心感(--自分の願いが100パーセント完成したことではない--願っていることの20から30パーセントが満たされたら、いうことなしと思えるようになれたらよいと思う--100パーセント満たされたら傲慢になる--)
 他の人と同じ現象を見ていてもその中に神の救いを見つけることが信仰ではないか
 がんで亡くなった牧師婦人の詩(--私が共にいる--治らないでもよいではないか--私が共にいる--長患いでもよいではないか--私が共にいる--何にもできないでもよいではないか--私が共にいるそれでよいではないか--ある晩キリストがそう言って下さった--)

1995/01/15 「我が家への帰り道」 ヨハネ 1:29〜34 (MP3)
 主題(イエスの受洗日)
 永六輔(「大往生」”自分に贈る弔辞”--あなたはタイミングよくあの世に行きました--あなたは何一つ無駄がない--芸能界で新人を育てると言いながらその芽を摘んでいましたね--ボランティアと称して実は休みに出かけたりして--書き下ろしたものは一冊もなく--好きな旅は我が家への帰り道--あの世に先に行ったら、またあることないことしゃべりまくることでしょう。そうかと言ってこの世に帰ってこられるのも迷惑です。三途の川に流されてあの世にもこの世にもいないというのが永さんらしい大往生だと思います。読者を代表してこの弔辞を読みます--)
 我が家への帰り道(--自分が一番”ほっと”できる--信仰に通じます”私たちはまさに我が家への道を歩いています”--途中で災難に遭うかもしれません--途中のことに振り回されても必ず我が家へたどり着く--)
 イエスの受洗(--.私たちの洗礼”罪が清められる”とは異なる--罪許されるという必要はなかった--四人の福音記者は霊が鳩のように下るこの人が、聖霊によるバプテスマをさづけるためであることを示したかった--いよいよ神が人となられましたよということを告げている--神様は抽象的な方ではなくて、具体的な方として、神が見える形となられた--)
 ヨハネ福音書の目的(--ヨハネの教会がヤダヤ教により迫害されたとき、信者を勇気づけるために書かれた--)
 アンピョン(--韓国の神学者--神が私というときには抽象的なものではなく歴史上の現実となられる--私とは歴史化された神、人間となられた神である--どんなに絶望的と見える状況の中でも、決して絶望してはならない--キリストを信じるとは真の人がここにいるという確信である--彼だけは信じることができるということによって人間に対する絶望から信仰へと移っていけるようになれる--希望を抱くことができる--)

1995/01/22 「イエスの指名」  ヨハネ 1:35〜51 (MP3)
 主題(最初の弟子たち)
 私たちはイエスの弟子である(--資格があるからということではなく一方的な選びである--どのようなわけで選ばれたかわからない--選ばれて迷惑ということもある--いやなことを超えた喜びがある”死んでも死なない、試練があってもそれを超えてゆく”--こんな私でも弟子なのですよ--)
 見る(--イエス様は本質”心”を見られる--私たちが知る以前から見つめておられる--信仰を持つということはいつもイエス様が見詰めていて下さったことに気が付くということです--)
 収税人レビ(--イエス様が私たちを選んだ--)
 見よ神の子羊(--私たちが見つめる--私たちはメシヤに出会った--)
 行動(--イエスに従った--)
 どこに泊まっているのですか(--どこに留まっているのですか--どのようなことにとどまっているいるのですか--とどまらないで物を言う人は評論家”冷たい”--私たちは真理を知り自由になる--)
 自由(--イエスに捕らえられている--努力の結果はくたびれる。いらいらする--)
 うめ子先生(キリスト教独立学園--”馬車に積んでいた荷物をとられた”私から何でもお取りくださいという祈りが聞かれたときはやはり寂しいものですがおかげできれいな心境になれました。みんな手放しで、無一物になると身も心も軽くなるんですよ、中途半端はだめですね--感謝できる信仰をずっと持ち続けることが夢です--)
 信仰を持っている(--いつでもぐらぐらしている--信仰を持ち続けるようにしてくださいという祈りを続ける--)
1995/01/29 「わたしは神殿」 ヨハネ 2:13〜22  (MP3)
 主題(新しい神殿)
 ルドルフ ボーレン(--ドイツ神学者--感覚が変えられなくてはならない--「第二コリント書における牧会講演」--ドイツの教会において支配的なことは個人が信仰深くあればよいという考え方です。教会意識などないのが通例です。せいぜいあるとすれば牧師帰属意識です。私たちはよい牧師を持っているとか、まずい牧師だねというのです。--牧師が教会の焦点、牧師は教会員の象徴であります。--そうなると教会は全体的な人格とは見られていないのです。--)
 説教中心(--プロテスタントの大事なことだったのですが、いつのまにか受け身になって受け賜るという姿勢になってしまいました”牧師中心”。--この様な姿勢は変える必要がある--自分とキリストとのつながりが大事にされ横のつながりが希薄になりました。気の合う人がいれば居心地がいいのですが、そうでない人がいれば居心地が悪いという状態になったのです--個人倫理”自分個人がどうするか”が大事にされ始めました”宗教改革時代には正しいことでした”--)
 新しい神殿(--教会が全体的な人格と見られることなのだと思われます--私の体は神殿なのですキリストの体の一部なのです生きているのはキリストです--私は一人で存在しているのではないのです”生きているのはキリストです”--)
 宮清め(--イエス様の暴力”怒り”--イエス様こそ真の礼拝をなさる--礼拝を清める--神殿”ご自分の体のこと”の再建--)
 ボーレン先生が引用された詩(--スイスの作家マリアの詩「ローマの噴水」。”意訳”--第一の受け皿は水が満たされるとそれを第二の受け皿に渡す--第二の受け皿が満たされると第三の受け皿に渡す--いずれも受けまた与える--)
 受けているばかりでは水は止まってしまう(--私たちがもし受ける苦しみがあるとすればそれは神が苦しんでおられるのを私たちがいただいている事なのだ--私たちが苦しみの中にあるときには、キリストも苦しんでくださっている--苦難を通り越すことなく満ち溢れるほどの恵にあずかれない--)
 牧会(--自分が一人でしていることではない--パウロはテモテを通して神の栄光を見ている”テモテのおかげだ”--)
 石川牧師の説教準備の仕方(--この聖書のテキストは礼拝に来られる方たちの現実を通してどうなのだと考える--心を落ち着かせる--何を語るかを示される--神は私を祝福してくださっている--自分の力ではない”みんなの祈りに支えられている”--一人一人の問題は教会の問題--ある人の喜びは教会の喜び--ある人の悲しみは教会の悲しみ--祈りあって支える--してもらっていることの方が多い--)



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