お話の聞き方説明
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1994/12/04 「とらわれなくてよい」 イザヤ 61:1〜4 (MP3) 
 来臨(--アドベント”おいでになる”--私たちはどこに向かって生きているのかを確認するとき--キリストが再びおいでになるということについてどう受け止めているかを確認するとき--)
 キリスト者とは(--キリストイエスの日”再臨”を目指している人--これを信じている人--)
 成功した立派な人ををほめたたえているキリスト教の在り方は信仰の一番大事なことをとらえていないのでは(--失敗だらけの人生でも神が働いている限りキリストイエスの日に必ず完成する--)
 イザヤ書(--不安な時代--絶望の時代--失望から解放するため”第三イザヤ”--抑圧された人々によい知らせを伝えるため--)
 高田敏子(詩人--「水の心」--水はつかめません、水は掬うのです、指をぴったりつけて、水はつかめません、二つの手の中に、そっと大切に--水の心も人の心も--)
 掴もうとするのではなく包むのです(--神様がそうしてくださったのです--)
 完成(--見た目で簡単に、成功した、失敗した、いいとか、わるいとか--最高だとか、最低だとか--最後には必ず完成する--)
 心配が先に立つと今がなくなります(--きょうなされている中で神様がどうなさるのか--どうなるかは全部お任せでいこう--)
 再臨を信じる(--今、現在の自分自身を待つゆとりを持つ--)

1994/12/11 「人生の清算の時が来る」 マラキ 3:1〜5 (MP3)               
 主題(先駆者)
 停電(--大切なことは先にやる--教会第一にする--)
 マラキ”神の使者”書(--審判の日が到来する--神様はほんとに正しいことをなさろうとしているのかという疑問が出た時代--信仰スランプ--祭司たちがいい加減な礼拝”格好だけつけていた”をするようになった--まず祭司を清める--)
 献金(--教会の維持費ではない--心のこもった礼拝をせよ--自分の信仰告白である--十分の一とは量の問題ではなく質の問題である--余り物ではなく自分にとって痛いなと思うような金額--まず先に献金の枠をとる--神は唯一、神を試してみよと言っている--思いがけない恵みに感謝できる--)
 最後の審判(--どれだけのことをしたかは救いの条件にはならない--)
 藤木正三牧師(--信仰と不信仰は別々にあるのではない。不信仰を乗り越えたら信仰があるのではなくて、信仰と不信仰は同居しているものだ。信仰は不信仰を内に包んでいる状態だ。不信仰によって信仰は信仰の最大の敵である安住から自らを守っている。不信仰は信仰の自浄作用と心得ましょう--ものを短い物差しで測らない--だめならばしばらく休んで出直しだ--自分のペースでよく生きようとし続ける。その、継続こそ大切なのが人生でしょう--人生で問われるのはこの継続の一字であることを語っているのが最後の審判の思想であります--)
 信仰(--自分の中には悪魔と天使が同居している--信仰は状態で考えてはならない--不信仰を抹殺することは無意味--不信仰である自分を責めない--ダメな者でありますが最後まで来ましたという在り方が終末を意識した生き方です--)

1994/12/18 「神が住んでくださる」 ゼカリヤ 2:14〜17 (MP3)               
 主題(告知)
 ゼカリヤ書”主は覚えたもう”(--神があなたのただなかに住まう--神がもっとも貧しくなる形で私達の中に住んでくだった”クリスマス”--)
 われら神とともにあると考えると傲慢になる可能性がある(--神がわれらとともにある--私たちがいようといまいと関係ない--)
 J.B.フィリピス(--聖公会司祭--聖書を現代英語に訳した--分かりやすい言葉に訳した--これがヒットして忙しくなりフリーの牧師として働くようになった--1961年突然仕事を辞め消息がわからなくなった--1982年自伝を出版--”以下自伝の内容”--無気力”うつ病”になり--自殺衝動に駆られた--信仰なんかは感情的には役に立たちませんでした、一番肝心なときに役に立たない--私は病を通して次のことを悟らしめられた--天国には重要人物などというようなものはいない--神がいるから私がいるという経験を通し回復した--)
 パニックになったとき信仰さえあればいいというのはおもい上がりである(--普段の生活が成功”幸福”か、失敗”不幸”かが問題ではない--信仰を持ったがゆえにうまくいかなくなることもありうるし、失敗することもある。しかしこのようなことに関係なく神が私の中におられるということに土台をおく--)
 天国では平等(--信仰が成功の保証ではない-- 私たちを通して神様があがめられる--)

1994/12/25 「ほめたたえよ」 ルカ 1:68〜79 (MP3)         
 大江健三郎(--大江光が大江文学を支えている、障害"てんかん、運動障害、知能障害"を持った子供を抱えて生きるということはどのようなことか--光のいいたいことを私が変わって言おう--光の気持ちを受け止めたい”このことが文学になる”--光は泣いて悲しいとか、涙を流した経験がない--光は赤ちゃんの時から音楽に反応していた--私の作品は私の死後しぼんでゆくが、光の作品は演奏してくださる方が一人でもいる限りずっと生き続ける--光るも音楽という形で自分を表現することができた--光がここまでこれたのは光を愛してくれた多くの人がいた--)
 光さんの音楽(--優しさがある、余計な音がない--悲しいという題の曲もある--演奏する人には本当の技術が問われる--)
 ゼカリヤ”ザカリヤ”の預言”賛歌”(--口がきけないようになった”障害は神様からの罰や呪いではない”否応なしに沈黙の世界に入った--自分は人とのコミュニケーションに対してなんといい加減であったかと気づかされた”神様の深い愛と恵みにきづかなかった。人間の目だけで判断していた”--注意深さが祈りにつながる”シモーネレーユの言葉”--祈りを知らない限り謙遜になれない--謙遜が祈りを生しまた新たな創造を生み出す--我らの道を平和に導く”私たちを通して、私たちに触れる人が平和に預かることができる。気が楽になって、うれしくなって、ほっとして、そのような存在に私たちがなる”--ゼカリアは耳を澄まし、目を凝らすようになった--)
 伝道(--教会の人が普段から謙遜に生きることを通して人々が自ずと近づいてくる--教会に集う人々が謙遜に生きることを通してイエスが伝えられる--名説教で感動しても教会員と触れてがっかりしたらなにもならない--仲間入りしたい交わり--)



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