1994/09/11
「良心的服従」 ローマ 13:1〜7
(MP3)
ヘルムートテリュケ(牧師--神学者--主の祈り--我々は決してイエスを信頼しすぎることはないし、だから、私たちを試みに合わせないでくださいと祈るとき、イエスご自身はこの祈りを教え、その故にそれがそれが聞かれるということに責任を引き受けたもうおかたであることをとくと思い見るべきである--)
主の祈りを本気に祈っているか、道徳的な祈りととらえると実感がなくなります(--別に人に嘘をついてわけでもない、不道徳なことをしているわけでもないと、先週も無事に過ぎたなと、これで誘惑にあわなかったと思っている--悪より救い出したまえとは道徳的な悪ばかりではなく、神様に背を向けることから救ってくださいということです--正義感にとらわれて神様に背を向けてしまうこともあります--) 権威の中にあるものに従うとは(--誘惑にあう可能性が著しくあります--民衆が暗黒の時代にローマの国家権力に利用された経過がある”王の権力に従いなさい”と--関連の中には悪に負けることなく善を持って悪に勝ちなさいとも書いてある”ブラックユーモアでもある”--パウロはローマの信徒が根こそぎローマ皇帝によって滅ぼされないように配慮したのかもしれない、善と悪との区別が明瞭すぎて 権力=悪 宗教的交わり=善 と主張し過激な行動をしている人たちに注意したのではないか”パリサイ的発想でもある”--) 権力には神から託されている責任がある(--それゆえに立てられなくてはならない--権力の座にあるものの行動”一部の者の利益だけになる”に注意する必要がある--) ボンフェファー牧師(--ナチスがしてはならないことをしている--ヒットラーを批判した”牧師であるがテロに加担したとかろがろしい正義感でボンフェファー牧師を批判できない どれだけ自分の矛盾差に気付いているかが信仰にとっては重要”幾百万もの人たちが政治権力により殺されていく現実を直視した--われわれから自由と名誉が奪われるとき彼らの前に昂然と顔を上げ、邪悪な叫びの中に私たちが投げ込まれても彼らに対し自らの無罪を宣す”この件に関しては裁かれることはないという自信”ただし神の前には罪”獄中では同胞を見殺しにし自らの死を恐れていた”を自覚する。”この意識が大きければ大きいほど自由で大胆になれる”--私は罪の告白者として出頭する--この多くの迷いと誤りの後に夜明けを見させ給えと祈った--) 弱さの中にあるものを抹殺してしまうものへの怒り(--その背後にある自分の罪を神の前で告白出来ているかが問われる--聖書の「毒麦の譬え」に学ぶ必要がある--) 自己の中にある矛盾に気が付くことが信仰者の姿であろう(--最後には御心をなしてくださいというところにたどり着く--)