1994/06/12 「キリストと兄弟の杯」 ローマ 6:1〜11 (MP3)                  
 洗礼の意味(--石川先生自身の受洗は教会にいって四回目に決断した--バプテスマ”水に浸される。古い私が死ぬ。一度限りのものである”--生まれ変わる--イエスに結ばれる”神との断絶が無くなる”よみがえりのイエスと共に生きる”死に支配されない”--受洗までの期間が長かろうと短かろうと関係ない”プロセスが大事”--救われる条件の資格ではない--罪”道徳的ものではなく、神様の方を向いていないことを指す”からの悔い改め--)
 イエスの処刑(--古い秩序”ヤダヤ教”の破壊者と見做された--)
 石川先生の結婚は奥さんと出会って四回目に決断した 
 石川先生が教会員”受洗”になろうとした動機(--キッカケは選挙運動員のアルバイトをしたこと--候補者がクリスチャンであったこと--土佐教会に行った--政治家のバックボーンがキリスト教だと叩き込まれた--自分は熱しやすく冷めやすいから早めの決断をした--これは私に対する聖霊の導きであった”これから逃げたら大変損をすると感じた”--)
 重兼芳子(「たとえ病むとも」--ガンの告知を受ける”人生はデメリットを背負う気迫がなければ良い結果は生まれない。手術に限らず百パーセントの成功は絶対でなくデメリットの裏側はメリットである”--”敗戦後まもなく教会に通ったときふかしたおいしいお芋を牧師から頂いた牧師が喜ぶお礼はなんだろうと考え受洗を決断した”--不安や恐怖を無理にねじ伏せようとせずその思いをい抱いた私を丸ごと受ける神の存在を信じた--恐ろしくてもいいではないか--イエスは私の恐怖を背負って下さる”私一人ではとても乗り切ることができないが我が内なるキリストが共にいて慈しみと憐みのまなざしを注いでくださる”--自分のあるがままに生きたことによって周囲の人が受け入れてくれた--)
 十字架を負う(--誤解と中傷から逃げない”むきになって居直らなくてよい”--)

1994/06/19 「王であると共に奴隷」 ガラテヤ 3:26〜4:7 (MP3)               
 初期教会(--信徒中心の交わり集団だったそれが次第に教職中心になり教職しだいで信者が多かったり少なくなったりするようになった--)
 現在のプロテスタント教会(--教会は牧師次第という傾向が強くなってきた--)
 ガラテアの教会(--説教者は巡回して回ってくる--パウロは別の土地から手紙を出した--パウロが初期のころに伝道した教会から心配な情報が伝わってきた”パウロ先生あんなこと言っているけれどもインチキだ。クリスチャンになるためにはまずユダヤ人になり割礼を受けなければなりませんよ”--パウロは怒って。ああ!物わかりの悪いガラテア人よ。そんなに物わかりが悪いのなら去勢してしまいなさいと言った--愛の実践を持つ信仰が大事です--あなた方は自由なのですよそれがまたなんで律法に縛られるのですか--)
 キリストを着ている(--キリストがあなたになってくださった--)
 井上神父(--自然のプニューマ”風、霊、息”にゆだねる--日本人クリスチャンはパリサイ派”差別”の人と同じだ--自分は優しい人間だと思っていたがかなりの人を傷つけてきた”自分のいやらしさに気づき”北海道の修道院に行った-”イエスキリストを知るということとイエスキリストについて知っているということは大きく異なる”ということを教えられた--資格としてではなく、誠実の”しるし、そのままのあなたをイエスは愛してくださっている”としての洗礼を受ける--)
 日本的キリスト教(--”和をもって貴しとする”心が必要だ--)
 ヨーロッパ的キリスト教(--きんきらきんのキリスト像--)
 アッパ=おとうちゃん(--小さい子供が甘えて父を呼ぶ言葉--)

1994/06/26 「照顧脚下」 エフェソ 5:1〜14 (MP3)        
 照顧脚下(--履物は揃えて脱ごう心が揃う 誰かの履物が乱れていたらそっと揃えておこうみんなの心も揃う--)
 足元が乱れている(--心も乱れている--)
 教会での奉仕(--履物をそろえる--己を顧みてみよう--宗教の基本は自分が問われる--)
 コロサイの教会(--いつのまにかイエスキリストを信じるということからそれてほかのものが大事”二元論”になってきた--)
 キリスト教は二元論ではない(---イエスは聖と俗という区別はあり得ないことを示された--)
 問題の解決を別なところに求める(--たとえば、私たちが悪いのではなく先生が悪いのだというようなもの--)
 道元禅師(--曹洞宗の開祖--仏道を習うというは自己を習うなり--)
 空海(--日本天台宗の開祖弘法大師”(こうぼうだいし)の諡号”--心理はどこか遠くにあるものではなくて自分の心の在り方を問題とすることです--)
 礼拝の前奏は主客転倒の時(--自分は礼拝に導かれてきたことを感じるとき”自分の信仰の業ではない”--自分が許したのではなく許された自分を感じるとき--よくないことが起こってもそれは罰ではないことを信じるとき--)
 愛(--行いではなくどこに基盤をおいているかということです--優しさとか親切とかは受け取った人が評価すいる結果である--愛を身につけなさいとは優しい親切な人間になりなさいということではない--基盤は自分はダメな人間であるということにある--どういうわけでかキリストは自分を捕まえてくれたホントにありがたい--)
 100歳の書道教師桝本うめ子先生(--山形県山懐の日本一小さな高校基督教独立学園--自分は天国一座--どんな人も良くやっている--”悪い人って一人もいませんよ”--)
 デール カーネギー(「人を動かす」--奥さんが相談に来た”うちの家ほどごたごたした家はない、どうしたらいいでしょう”--誰が悪いか実験をした”まずご主人を一週間外に出したが変わらなかった。こうして家族を次々と外に出したてためしたが改善されなかった。いよいよ相談に来た奥さんが家を出た。そしたら家族がうまくやっていた”--奥さんに原因があった--物事の解決を外に見つけない--)
 人を変えようするなら自分を変えなさい(--愛を身に着けることに通じます--)

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