1994/05/29
「終わりを心配しない」 エフェソ 1:3〜14
(MP3)
精神”心の病”を病んだカップルの結婚式に参加(--僕は必ず良くなる--神様はこの人に出会うために今日まで私を生かして下さったのだと思います--泣けるだけ泣くという会に参加して自立できた--妹の話”この兄弟の家族で良かった”--)
終わりを心配しない(--聖霊を信じて生きる--必ずつじつまが合うようになっている--死の先が保障されている--)
三位一体(--イエス様に躓いてわかる--あるべき人間の姿を現した--無理無理イエス様を祀り上げるよりもわからないことは分からないとしておく--)
すべての過去が私にとって大事なものとなった(--この過去は捨てたいという思いがある限りはまだ十分に神の恵みを受け取っていない--それがあったからこそ今日の私がある--)
予定説(--主観的”救われたと信じる人の感じ方”なもの--ある人は救われ、ある人は救われない”救われて自由になったものが天地創造の前から選ばていたんだと信じることであり救われない人のことを言っているのではない。まして運命論でもない”--ありとあらゆることが自分が今あるということのために自分の過去の歴史がなければならなかった--)
聖霊は愛の伝え手(--自分が感じる感覚ではない--あとからわかるものである--挫折、失敗--聖霊の禁止--)
信仰者にとって挫折はない(--予定の変更だけがある--)
キリスト教は時間とかかわる歴史の宗教である(--人間は一刻もとどまらない現実の中で生きている--自分を許すことができるようになった今を生き生きと生きることができるということは過去を受け入れることができるようになったときです--)
シスター渡辺和子(学校法人ノートルダム清心学園の理事長--優しさをということを考えるとき他人に優しくすることを考えますが自分に優しくすることを忘れがちです。他人に優しく出来るためにははまず自分に優しくならなければならない--どんなに惨めな自分でもそれを受け入れていくことです--お前はバカだねと話しかけながら仲良く暮らしていけることが自分です--「自分のいるところで咲きなさい」”神様が置いて下さったところであなたは咲かなければならない。仕方がないとあきらめるてではなく咲くのです。咲くということは自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。咲くということは周囲の人々にあなたの笑顔が私は幸せなのだということを示して生きるということなのです。神が私をここにおいてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだとあなたのすべてが語っていることなのです。咲くということは他の人の求めに喜んで応じ、自分にとってありがたくない人にも決していやな顔、退屈げな顔を見せないで生きることなのです”--)
自分を許すことができない人は無意識に他人を許すこともできない(--他人のせいにしたがる--)
短所を受け入れることは長所も受け入れることです(--人を欠点で見なくなる--弱さの共有--)
罪とは(--自分がしていることに気付かないこと--)
気にするということが不信仰ではなくて神様に戻らないことが不信仰です