1994/05/01 「わたしに代わって」 ヨハネ 21:15〜22 (MP3)                   
 ヨハネによる福音書に後世追加された記事 
 復活(--神が人となられた--最も低く、弱くされた人として--) 
 信じていれば成功します(--失敗に見える場合もある--) 
 イエスは三度、「わたしを愛しているか」とペテロに問われる--) 
 アガペー(--神の愛--無価値なものも愛する--) フィレーン(--人間の愛”肉親の愛”--価値のあるものを愛する--) 
 ペテロ(三度イエスを知らないと言う--イエスは三度目はフィレーンで愛するかと問う”同じ目線に立ったイエスの配慮”--) 
 渡辺和子先生(--シスター--ペテロに対してイエスを愛することを許しの条件としていたようだ--傷を残したまま現れたイエスはこの傷があなたたちの赦しのしるしですと言いたかったのでは--”わたしたちも傷を隠す必要はない”--) 傷を感じているペテロだから泣いた 
 星野富広(--わたしは傷を持っている。その傷からあなたの優しさがしみてくる--) 主よあなたは何もかもご存知です(--許されたことを確信した--出発の原点がある--) 
 優しい人(--憂いを持つ私のそばにキリストが立つ--憂いをもつ人は優しい人だ--)永山太郎

1994/05/08 「ひとりだちしなさい」 ヨハネ 16:25〜33 (MP3)                  
 主題(父のもとに帰る) 
 陶 淵明(とう えんめい--帰りなんいざ"帰去来"田園まさに荒れんとす--私には帰るところがある)
 イエスの決別説教(--弟子たちに残していった説教という形をとって迫害にさらされていたヨハネの教会の会衆に語りかけている--もっと広く言えば現在の私たちに語りかけている--)
 わたしはすでに世に勝っている(--我が神我が神なぜ私をお見捨てになったのですかというイエスの叫びを聞くとき、絶望的状況になっても孤独にはならないことを感ずる--”父がともにおられるからこのように叫び続けられる”--)
 一座建立(--キリスト一座--あなたの役目”必ずしも主役でなくてもよい座員の一員として勤める”--教会を立てる--芝居小屋”教会”を建てる--一人では演じられない--いろいろな人がいる”罪びとの集まり”--違いが大事--喜びにあふれたあなたに触れた人が信仰を感じる--)
 復活のイエスに出会ったとき(--弟子達は比べあうこと”善悪の判断”をやめた--)
 創世記のアダムとイブの物語(--善悪の判断を人間がしてはいけないということを示している 神様の目から見たとき誰が上か下かは問題とならない、どれだけのことが出来たかどうかも問題にならない--)

1994/05/22 「悪友の交わり」 使徒言行録 2:1〜4 (MP3)                    
 日本キリスト教教団は聖霊についてはっきりした受け止め方がなされていないような気がする(--カトリックに対して倫理を強調した--ピューリタンが生まれた”禁酒、禁煙、快楽を捨てる。自分の内側よりも外側に気を使う”--) イエスは内側が外に現れるといわれた(--パリサイ人は道徳を重んじた”悪い人ではない、むしろ一般社会では。自覚がない善人である。自分に悪があるなどと思っても見ない”--) 
 イエス(--人間としてのイエスを見るとイエスが神の子であったということがわかる--) 
 使徒言行録(--聖霊行伝--気づかせ”悟り”てくださる神--) 
 遠藤周作(「私にとって神とは」--無意識の部分に働きかける神”リラックスしたときに感じる”--)  世界の最大の悪は鈍感である 信仰=きづき=愛=感じること=感性”みな百パーセントではない” 
 悪友の交わり(--親友=弱みを共有している”罪人としての意識”) 
 三浦綾子さんの勧め(--石川牧師はユーくんとの出会いを進られた--先天性脳性まひで自殺未遂までした”この子はうれしいと転がるんですよ”--彼が歌っているのは音程に合わないが感動した--二年後彼は話できるようになった--僕厄介かけているなー”ありのままを表現していた”--) 厄介掛けている存在をそのまま受け入れている 
 木は倒れたところに横たわる 
 弟子達は伝わる言葉で話し始めた


1994/05/29 「終わりを心配しない」 エフェソ 1:3〜14 (MP3)                  
 精神”心の病”を病んだカップルの結婚式に参加(--僕は必ず良くなる--神様はこの人に出会うために今日まで私を生かして下さったのだと思います--泣けるだけ泣くという会に参加して自立できた--妹の話”この兄弟の家族で良かった”--) 
 終わりを心配しない(--聖霊を信じて生きる--必ずつじつまが合うようになっている--死の先が保障されている--)  
 三位一体(--イエス様に躓いてわかる--あるべき人間の姿を現した--無理無理イエス様を祀り上げるよりもわからないことは分からないとしておく--) 
 すべての過去が私にとって大事なものとなった(--この過去は捨てたいという思いがある限りはまだ十分に神の恵みを受け取っていない--それがあったからこそ今日の私がある--) 
 予定説(--主観的”救われたと信じる人の感じ方”なもの--ある人は救われ、ある人は救われない”救われて自由になったものが天地創造の前から選ばていたんだと信じることであり救われない人のことを言っているのではない。まして運命論でもない”--ありとあらゆることが自分が今あるということのために自分の過去の歴史がなければならなかった--) 
 聖霊は愛の伝え手(--自分が感じる感覚ではない--あとからわかるものである--挫折、失敗--聖霊の禁止--) 
 信仰者にとって挫折はない(--予定の変更だけがある--) 
 キリスト教は時間とかかわる歴史の宗教である(--人間は一刻もとどまらない現実の中で生きている--自分を許すことができるようになった今を生き生きと生きることができるということは過去を受け入れることができるようになったときです--) 
 シスター渡辺和子(学校法人ノートルダム清心学園の理事長--優しさをということを考えるとき他人に優しくすることを考えますが自分に優しくすることを忘れがちです。他人に優しく出来るためにははまず自分に優しくならなければならない--どんなに惨めな自分でもそれを受け入れていくことです--お前はバカだねと話しかけながら仲良く暮らしていけることが自分です--「自分のいるところで咲きなさい」”神様が置いて下さったところであなたは咲かなければならない。仕方がないとあきらめるてではなく咲くのです。咲くということは自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。咲くということは周囲の人々にあなたの笑顔が私は幸せなのだということを示して生きるということなのです。神が私をここにおいてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだとあなたのすべてが語っていることなのです。咲くということは他の人の求めに喜んで応じ、自分にとってありがたくない人にも決していやな顔、退屈げな顔を見せないで生きることなのです”--) 
 自分を許すことができない人は無意識に他人を許すこともできない(--他人のせいにしたがる--) 
 短所を受け入れることは長所も受け入れることです(--人を欠点で見なくなる--弱さの共有--) 
 罪とは(--自分がしていることに気付かないこと--) 
 気にするということが不信仰ではなくて神様に戻らないことが不信仰です

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