「招かれた羊」
(テキスト形式)
★ こんな読み方、あんな読み方
目からうろこの石川流「聖書のレシピ」

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著書「招かれた羊」目次 
区分
タイトル
内容
はじめに 「愛は道徳を超えたものである」ということを考えたいのです。

旧約の言わんとすることは何なのか、を受け止め、イエスがそれをどのように表わしたのかを読み取らないと、見当はずれな読み方をしてしまう、と私は思っています。

まず、旧約の「面白さ」を味わってみましょう。

初めに、神は天地を創造された。(創世記一章一節)旧約の書き出しの言葉であり、聖書全体の書き出しの言葉でもあります。そして次のような言葉が続きます。-----
エデンの園の物語は、「人間のあるべき姿」を表現していると思います。
エデンの園の物語は、人間とは何であるか、ということを実に的確に伝えた話であって、人類の先祖の話ではありません。人類の先祖についての追求は、科学にまかせておけばよいのです。
旧約を読んでいると、神さまはイスラエルばっかりヒイキにしているように見えることがよくあります。よく考えると、それは当たり前のことです。
創世記は、三七章、三九章〜五〇章のヨセフ物語で締め括られます。「加害者は、すぐ忘れるが、被害者は、決して忘れられない」

イエスは、神の命令に忠実に従って、決して「善悪の知識の木」からは取って食べなかったアダムを生きられたのだと信じています。神に従順に従って生きるとは、どんなことかを示されたのであって、それは「人となられた神」にしか出来なかったことだったのです。そのような見方によって福音書のイエスを見てみると、非常に多くのことを知ることができます。「イエスが面白」くなります。

イエスが一見意地悪に見えることをされたのは、「しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わり」だったのです。
イエスはイスラエルが、「子供」で、外国人は、「小犬」だ、と言ったのですから。私は、犬を飼っていますから、認めたくないのですが、聖書の世界では、犬は軽蔑された存在でした。人に媚びたように尻尾を振るからでしょうか。いずれにしても、そのもっとも軽蔑された「犬」にたとえてしまったのです。もしも、現代のように、取材陣が貼りついていれば、たちまち、世界中に打電されたかも知れません。

 「イエス、重大な差別発言!外国人を犬と呼ぶ!」

「感じたまま」の愛は、人の誤解と非難をも受容する覚悟がなければ、出来ません。イエスは、その覚悟を勧めておられるのでしょう。ザアカイに対するイエスの言葉は、エリコ中の人の誤解と非難を覚悟されたものだから、彼には、非常に迫力があったのです。それほどにしてまで、自分の友となろうとしてくださる、これは、もう何も要らなくなるほどの感動と喜びをもたらします。
「道」だと言われたイエス様の真似を出来るだけして行きたいと思っています。
かねがね、キリスト教入門用のテキストを執筆しようと準備していたのですが、実際に、キリスト教基礎講座の回を重ねるに従って、多くの教会で利用してもらえるようなテキストを書くことのむつかしさを感じて、途中半端のままでいました。