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       の び の び 講 座 一 9 「キリスト一座」(教会と聖礼典)
                                              石川和夫牧師 
◆神は、人を神の民の一員として召し出される
 神の民が選ばれた理由は、祝福の源となること
   『あなたは生れ故郷父の家を離れて
   わたしが示す地に行きなさい。
   わたしはあなたを大いなる国民にし
   あなたを祝福し、あなたの名を高める
   祝福の源となるように。
   あなたを祝福する人をわたしは祝福し
   あなたを呪う者をわたしは呪う。
   地上の氏族はすべて
   あなたによって祝福に入る。
        (創世記12:1-3)

 
神の民の原型⇒ノアの箱舟
    「神はノアと彼の息子たちに言われた。
    『わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫 と、契約を立てる。
    あなたたちと共にいるすべての生き物、
    またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、
    箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
    わたしがあなたたちと契約を立てたならば、
    二度と洪水によって地を滅ぼすことも決してな い。』
       (創世記9:8-11)
 従来、キリスト教界では、ノアの物語においては、ノアの信仰のみに重点が置かれ、動物たちか、なぜ一対づつ箱舟に入れられたかについては、無言だったような気がする。動 物たちは、いわば、お添え物だったのである。
  しかし、この物語において、神は、
 「あな たたちと共にいる鳥や家畜や地のすぺての獣など、
 箱舟から出たすぺてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」
 と言われていることに注目すべきである。
 動物は、添え物ではなくて、大事な役割を担っていた。このことを長い間見過ごして来ていた。
 ノア契約は、要するに、
人と自然の両方に対する神の祝福だったのである。
 そして、神は、人間の役割 について、この神の創造の秩序を守ることにあると、
 この物語は語っている。
 このことについて、プリンストン大学旧約聖書学の W・アンダーソン教授が次のように述べている。
 「物語は居住可能な地を混沌から創造することをもって始まり、その地が創造以前の混沌に今まさに戻ろうとする宇宙規模の破局へと向かい、新しいはじまりをもって頂点に達するのである。実際にその新しいはじまりは、人間と動物と鳥と地全体のための未来を開く創造者の契約に基づく新しい創造である。」
  (R・W・アンダーソン「新しい創造の神学」、 教文館、2001年10月10日、初版、237頁)
 「ノア契約において法的義務は与えられているか、契約の永続性は善かれ悪しかれ人間及び人間以外の被造物に対する神の無条件的約束に基づく。
 この考えによれば、未来に対する希望は人間の行為あるいは進歩にあるのではない。 それは寄り掛かるには弱い---ほんの葦にす ぎない。---
 何故なら人間は変わるとは思われないからである。そのことは、古い叙事詩の洪水伝承 (創世8:21)において与えられているし、また今日の戦争や戦争のうわさの中に反響している憂鬱な記述である。
 むしろ、希望は被造物に対する神の絶対的な約束にある。」 (同 244,245 頁)
 天地創造の神は、人類に、ご自分の創造された地球の生命すべてを保存するように、
人類の代表として、ノアと契約を結ばれた。
 従来の解釈では、箱舟は、神の裁きを免れた「教会」と受け止められてきた。 しかし、そうではなく、ご自分のイメージに似せて人間をお造りになったのは、神がなさろうとしておられることを人間がするようにお造りになったのだと、アンーダーソン は主張する。
 とすれば、箱舟とは、人類すベ てを意味しているのであって、決して、一部 の「特権階級」を指しているのではない。
 教会は、そういう意味では、神の御声を取り次ぐアンテナの役割を果たさなければならない。
 地球のあらゆる生命の保存のために働くあらゆる人々と連帯するのが当然である。

◆教会は建物ではない人々の群れである
 教会=エクレシア(ギ)=集会、部隊……呼び寄せられた人々の群れ (祝福の源となるために)キリストによって呼び寄せられた集団(マルコ3 :13〜15)
 そのために
 @ キリストのそばに置く⇒キリストとの交わり→自由⇒解放⇒礼拝(公同礼拝)
 A 派遣して宣教させる⇒よいニュース(福音)の伝達者→キリストのメッセンジヤ一⇒伝道
 B 悪霊を追い出す権能を持たせる⇒最も 弱い人々に寄り添う⇒奉仕
                            ↓
                  「いやし」(人権回復)に仕える
 人を差別し、阻害する力……病苦、貧困、 差別
「最も小さい者の一人」(マタイ 25:40)に仕えるために、教会はある!
→神のもっともなさりたいこと


◆教会は、「キリストのからだ」である
    「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、
    キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
    教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
      (エフ ェソ1:22,23)
    「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすベての部分の数は多くても、
    体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
    つまり、 一つの霊によって、わたしたちは、
    ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隸であろうと自由な身分の者であろうと、
    皆一つの体となるために洗礼(パプテスマ)を受け、
    皆一つの霊をのませてもらったのです。
    ......一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
     一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。......
    あなたがたはキリス卜の体であり、また、一人一人はその部分です。」
      (コリン!12:12'13'26'27)
 
「『あなたがたはキリストのからだである』。
  あなたがたはそのために何かをする必要はないのです。
  神がすでにすベてのことをなしてくださったのです。
  神は自由な恵みからわれわれに、
  われわれがキリストのからだであるということを贈ってくださったのです。
  このことは、神がわれわれすべてを、
  その力と栄誉と血と霊とが
  イエス・キリストであるような一つの生命に堅く結びつけてくださったということです。
  神はわれわれを、彼の民の中に引き入れてくださったのです。
  神はこの地上に一つの共同体(ゲマインデ)を選び出されました。
  その共同体の主はイエス・キリストであり、われわれはこの主に属し、
  この生命にあずかって共に生きるのです。」
      (ボンへッファー「教会の本質」より)

問  教会(キルへ)とは何ですか。
答1 教会は、この世からえらび分かたれて、
   キリストのみことばと聖礼典(サクラメント)の下に立つ交わり(ゲマインデ)です。
  2 教会は、目にみえるキリストのからだです。
  3 教会は、キリストのうちにあり、キリストによって受け入れられ、
    あがなわれた新しい人間の集団です。
問 あなたは、どこで教会をたしかにみいだしますか(教会のしるし)
答 教会において、キリストのことばが真実に宣べ伝えられ、
   聖礼典が、その設定の目的にふさわしくとり行われ、
   キリストのみ名が自由に告白されるところです。
      (ボンへッファ 一「現代信仰問答」新教出版社、80-81頁)

 「わけても『キリストの体』ということを、もっとも深く掘りさげて考えていくと、
命をかけて、弟子たち(教会)に伝えようとした、あの『互いに愛し合え。互いに仕え合うのだ。
信じ合え、一つであれ』という真実です。
 イエスを信じ、教会(キリストの体)につらなる、ということは、その教習所でイエスに固く結びっき、イエスの生き方を模倣し、イエスを主とし、教師として大きくなること。そしてイエスの働きを受けつぎ、その展開のため活動する共同体 (ゲマインデ)となることです。」
  (青木敬和「信徒のための神学ABC」教団出版局、1984年3月15日、初版、5〜52 頁)

◆聖礼典(サクラメント)とは?
 サクラメント(ラ)=訴訟の際に聖所におさめる供託金⇒「誓約」、「新兵の入隊宣誓」
二つの聖礼典
 @ 洗礼=パプティゼイン(ギ)=「水に浸す」
    「バプティスマは、水面下に全身を沈めて
   『低みから見直させる』民間儀式であり(マタイ3:11、マルコ1:4)、
   汚れを洗い流すというような、いわゆる浄一不浄の問題とは関 係ないことでした。
   ......イエスにとって、水の中に「身を沈める」バプティスマは、
     イエスがすべての人に求め もう一つのバプティスマ、
     「聖霊の火の中に身を沈める」ことのしるしにすぎません(マタイ3:11)。……
   イエス が彼らに求めたバプティスマは、彼らが身を低くされ、
   自分に死ぬことであったことは明らかです。
   それはまさに「聖霊の火の中に身を沈められ」、
   不純なものがみな焼き尽くされて新しく生まれ変わることにほかなりません。」
     (本田哲郎「小さくされた人々のための福音」より)

神の民に加わる入会式
 A 聖餐=ユーカリスト(ラ)、エウカリスティア (ギ)=「感謝」
   「一言で言えば、ご聖体を拝食することによって、僕はキリストご自身を迎えるからである。
   そして僕は、このキリストに命がけで自分の一生を捧げたいからである。
   『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしにおり、
   わたしもその人におる』(ヨハネ6:56)というイエスの言葉を単純に信じて、
   主において常に留まりたいからである。
    ……そして、その糧をいただくのは『これを取って食べなさい。
   これを受けて飲みなさい』(マタイ26:26,27)という招きに応じるためである。
   主がこのように僕たちを招くのは不滅の永遠の新しい契りを結ぶためである。
   僕たちと切っても切れない密接な絆を結びたい主はご自分の最大の愛を示し(ヨハネ13:1)、
   切に望んでいる(ルカ 22:15)計画を実現するために、
   このご聖体という手段をお定めになった。」
     (エドワード・ブジョストフスキ「主をほめたたえよ」から)

神の民の愛の確認
◆愛の教習所としての教会
  それが、公同礼拝の本質
 @ 愛においてざんげ(罪の告白)
   人 となるために教会がある
 A 愛において恵まれ(キリストによる赦 し)
 B愛するために遣わされる(愛への派遣)
 愛への派遣⇒何かが起こる

◆キリスト一座建立

 「一人では、一座建立は出来るものではない。
 大勢の者が集まり、協力してはじめて一座が建立される。
 劇団の一座が座頭をはじめ、舞台の奈落の底で働く無名の座員までが、
 エゴイズムを棄てて脚本に焦点を合わせてこそ一座は成り立つ。」
 「人生もまた、善人悪人によって、一座が建立されていく。舞台上でこそ、いがみ合い。
 争い・わめき・怒るが、どん帳がおりて楽屋にもどれば、善人も悪人もないではないか。」
  (松原泰道「こころの杖ことば」全国青少年教化協議会昭和51年9月1日第2刷)

 「しかし、せっかく、福音を生活のことばに訳せても『教会・肩がキューとこっ ちゃうもんね。
 そうだな、ひとことでいえば、“マジメ人間製造所”ってな感じ。
 ある一定のわくがあって、そこにはまりこめないと、おっぽり出されちゃう』のでは元も子もありません。
 マジメ人間は視野が狭く、退屈で、スケールが小さい。
 いつもNHKテレビをみているような感じ。
 いきのいいのは、窒息します。
 だいたい庶民の生活感覚というものは、 高遠な哲学やとりすました信仰の中にはなく、
 実に、食う、眠る、アクビをする、おしっこやウンチをする、ニキビに困る、
 あそこのスーパーはこっちより安 い、あのタレントはだめだ
 ……こういった生活の臭いの中にあります。
 教会がこういった生活の臭いの中で展開されているだろうか。
 あいつもこいつも、みんなが持っていて、その処理に困っている、
 あの心のへドロを教会で吐き出しても大丈夫という雰囲気がほしい。
 イエスはズッコケも含んで愛してくださるかたなのですから。」
    (青木敬和「信徒の神学ABC」、62〜63 頁)

               使徒信条解説一9
聖徒の交わり、罪のゆるし
聖徒の交わり

「聖徒」というときの「聖」という言葉は、特別に区別する、という意味を持っています。言うまでも無く、キリストに呼び出された者同士、という意味で、特別に区別されているのです。人間的な好き嫌いとか、馬が合う、会わないということとは、全く関係か'ありません。教会で出会うどんな人もキリストに選ばれている人です。これが教会の交わりの根本的な大前提です。
罪のゆるし
罪は、天地の創造者である神との関係を断絶させるものです。しかし、キリストに呼び集められ た者は、キリストご自身が身代わりになってくださったことによって、罪が赦され、神との自由な交わりか許されています。「死のとげ」(コリント15;56)である罪が滅ぼされているのですから、わたしたちは、死に対しても勝利が与えられているのです。