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の び の び 講 座 一 6 「愛の助けて」(聖霊)

石川和夫牧師   

 「聖霊」は、正直言って、ピンと来にくい。 それは、「霊」という語が、我々日本人には、 馴染みにくい面か'あるからである。「幽霊」、 「霊媒」、「霊感」など、なんとなく現実離れした神秘的なイメージを与えているからだろう。 聖書における「霊」は、日本語の「霊」とは、だいぶ違ったニュアンスで使われている。 本田哲郎神父に聞いてみよう。 「へブライ人は、目には見えないけれども確かに存在するものを《霊(ルーアハ)》と呼びました。風は霊であり、呼吸する息も、 霊です。生き物か呼吸をすることから、すべ ての生き物には霊があると考えました。それは神か備えてくださった《命の息吹》であり、 気力と健康の源でした。そのため、霊は『意欲』とか『元気』と訳されることもあります (出6・9、士15・19)。したがって、神 がこの霊を取り上げられると、人は息絶え、 土に帰ってしまいます
(ヨブ34・14—15、 詩146・4)。
 
霊のこのような側面においては、人間も動物も変わりはありません。
人間に臨むことは動物にも臨み、
これも死に、あれも死ぬ。
同じ霊を持っているに過ぎず、
人間は動物と何ら勝るところはない。 (コへ3-19)

 しかし、この霊には、人間の場合、他の動 物とは根本的に違う作用のあることを、ヘプ ライ人たちは気付いていました。人は、心が 乱れると呼吸も乱れ、また、呼吸を合わせる ことか心を合わせることにもつながります。 それで、人間に備わった霊は、人間存在の最も深いところ、すなわち《心》と同一視され るようになります(代上12・18)。
 へブライ人にとって、心とは、生命の力が働く場所、 喜怒哀楽の感情の座であり、身体と不可分の ものです。したがって、人が『私の霊』というとき、それは《私自身》を指しているのであり、心も体もすべてを含みます。私自身の 存在全体を、存在の最も奥深い所からとらえて表現したものと言えるでしよう。
  ところで、人間に備わる霊は、神の霊そのものではありません。神は、この霊を通して、 ご自分の霊を人々に触れさせてくださること を、へブライ人たちは体験的に知っていました。
 人間に備わる霊のもっとも大事な作用は、 神の霊の働き掛けに《共振する》ことです。 それは、神との人格的な交わりを意味し、人が神の霊と共に働くことを可能にする潜在的 な力を意味します。ある意味で、人間に備わ った霊は、神の霊の受け皿であると言ってもよいかも知れません。実に、神の霊が私の霊 と共振するとき初めて、私は真に生きる者と なるのです。 神よ、わたしの内に清い心を創造し、 新しく確かな霊を授けてください。 み前からわたしを退けず、 あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 (詩 51-12—13)
 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。 私の霊もたえず生かしてください。
(イザ38-16)」 (本田哲郎「小さくされた者の側に立つ神」、新世社、 1990年10月20日、第一刷、1998年12月15日、第五刷、85—88頁)
 神の霊が私たちの霊と「共振する」経験が、 「聖霊体験」と言えるが、しかし、それをあまり劇的に捉えないほうがいい。確かに、劇的な経験もあるかも知れないか、ほとんどの場合、日常的な平凡な無意識のうちの経験を含むからである。 キリスト教信仰で、「聖霊」と言われると きに、しっかり受け止めておかなければいけ ないことは、三位一体の信仰である。これがまた、分かるようで分かりにくいので、できるだけ、簡略に説明を試みよう。

♦「聖霊」は、三位一体の神のひ とつの人格
 三位一体の「位」とは、「位格」(ペルソナ) つまり「人格」のこと。 ペルソナ(ラテン語)
  ① 普遍-共通なもの
  ② 一回性のまったくユニークなもの
  ③ 他とのかかわりあい (犬養道子「個人と国と国際と」 _____岩波ブックレット№164)
石川和夫の三つの顔
 ① 牧師
 ② 夫
 ③ 父 その呼び方は、関係によって異なってくる
  一人の神の三つの人格(顔)
  父 …創造者,審判者、保護者、訓練者超越性
  子(キリスト)| ……啓示者、仲保者、同伴者、具象性
  聖霊 ……伝達者,つなぎ手(愛の繫ぎ手) 内在性
  (神—人、人—人)(Comunicater)
  愛の助け手 無意識の世界への働きかけ4気づ かせる神(フィリピ2-13)

♦聖霊は.信じるもので、感じることを優先させてはならない
  同時的に感じ取るものではな く、結果的に信じるものこの感性は、何かにとらわれていると歪んでし まう。 だか ら、ピンチのときには、感性は歪んでいる のが普通。

♦「聖霊による禁止」(使徒言行録16:6〜10)とは?
  「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁 じられたので、」(6節)
  「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」(7節)
  「聖霊による禁止」=計画の失敗、挫折、行き詰まり
   人間の計画を超えた更にすばらしい道に導くため トロアスは、挫折の果て新しい展開への出発の地
  「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、
  確信するに至っ たからである。」(10節)⇔結果から知る
   行き詰まっても何かが起こる!
   神は、私たちの思いや計画よりもはるかにすばらしいことを準備しておられる!

♦聖霊によって生きるためのプロセス 《使徒言行録1:4、14》
 ①エルサレムを離れない 逃げ出したい現実から逃げない
 ② 信じて待つ 「何かが起こる」という期待
 ③ 仲間と心をあわせる努力 1:4 結論を急がない、 1:4
  罪人としての 連帯感(悪友の交わり) 1:14
   (弱さの共感)—祈る材料
 ④熱心に祈る 結論は、神に委ねる 1:14
  願いだけではなく、自分が何をすべきかを聞く
  祈り=神との対話(対話の秘訣=話し手は聞き上手)

♦「神の霊」の働き 信仰=感性=愛
  「私たちの霊が共振を求められている『神の霊』とは、どういう力なのでしょうか。
  神の霊の働きとは、一体、どういう力のなのでしょうか。
  私たちが神の霊の働きに従って生 きようとするときに、敏感に共振出来るよう に、
  また、自分の勝手な思い込みや単なる衝動を、霊のうながしと混同しないためにも、
  神の霊の吹きつけるおおよその方向を、聖書から学んでおくことはとても大事なことと思 います。

《創造の業 一 愛と調和》
  へブライ人たちが、神の霊の最も本質的な働きに気づくよ うになったのは、
 彼らがバビロニアの捕囚という悲惨な体験をしたときからでした。
  神の霊は、無から存在を呼び出す《創造》の業における働き手であったということを、
 彼らは排斥と絶望の苦しみの中から感じ取ったのです。
  祖国を追われ、生活の基盤である土地を失い、精神のよりどころであるエレサレムの神殿からへだてられて、
 人間の力の無力さをつくづく思い知らされたときでした。
  自力による民族回復の望みは断たれました。
  頼るベ きはただ一つ、神による新たな創造の力だけでした。
  ここに、無から存在を呼び出す《創 造の神学》が生まれたのです。
  創世記の天地創造物語(創1.1一2. 4) が編集されたのも、このころでした。

  初めに神は天と地を創造された。
  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
  神は言われた。「光あれ」。 こうして光があった。 (創1.2—3)

  ここで、宇宙の原始状態として描かれる『混沌』と『深淵の闇』は、
 まさに、捕囚の身にあるへブライ人たち自身の心象風景と重なるものであったことを、
 私たちは見落としてはなりません。
  不確実と不安定の象徴である 『水』の上を、『神の霊』が動いている。
  この霊の働きを通して、希望と喜びの『光』がもたらされるという福音でした。
  こうして、人間の幸せを目指してあらゆるものが創造されていきます。
  抑圧と差別の苦しみのさなかにあるへブライ人たちが見た神の創造の業は調和と公平と愛に満ちたものでした。
  詩編作者たちは、くりかえし神の霊による創造の御業をほめたたえます(詩104、136、 148など)。
  ギリシア人たちはこの宇宙を“コ スモス”(秩序、禁制)と名付け、それ自体、 完成したものと見ましたが、
  へブライ人にと っては、宇宙の秩序は、
  あくまでも人間社会の中に実現されるべき愛と公平と調和の『しるし』でした。
  事実、聖書が神の創造の業、宇宙のみごとな調和に言及するとき、必ず、
  その前後に正義と平和についての教えが述べ られています。
  それは人間社会のあるべき調和、公平、愛について語ろうとするときなのです。
  創造のメッセージは、正義と慈しみ、裁きと平和についてのメッセージなのです。

  主の言葉は正しく、み業はすぺて真実。
  主は恵みの業(ツダカー正義)と裁きを愛し、 地は慈しみに満ちている。
  み言葉によって天は造られ、 主の口の息吹(霊)によって天の万象は造られた。

自由自在
 自由は自らによる。自在は自らに在るということ。他からの束縛を受けず、自分を中心にして何ものにもふりまわされないということです。何々から解放されて自由 になるというのではなく、心にわだかまり のないことを自由とか自在と言います。 (心にこだわるものがない) (瀬戸内寂聴「寂聴般若心経」中央公 論社1989.2.10.) __________________

主は大海の水をせき止め、深淵の水を蔵に納められた。(詩33-4—7)

 へブライ人たちは、無から存在を呼び出す創造の業に、神の愛を感じ取りました。それは‘共に居て欲しい’という神の熱い思いでした。モーセを通して民に告げられた神の名を‘ヤーウエ’(共に在る)は、まさに愛である神のほんとうの姿を表現したものと言えます。この宇宙も、人間の世界も、‘共に居て欲しい’という愛の原理で成り立っているはずなのに、実際には、それがゆがめられ、はばまれている現実を、へブライ人たちは自分が排斥され、虐げられて初めて、はっ きり見るようになったのです。天地を創造した同じ神の霊が、この愛の秩序を回復するために、すなわち正義と平和の実現のためにこそ働いておられることを、彼らは悟ったのです。(本田哲郎前掲書、89—92頁)

♦私たちは、聖霊の海の中で泳い でいる
 聖霊は呼ばなければ、来てくださらない方ではない。私たちは、すでに聖霊の海の中で生きている。聖霊によって呼吸している。 肉体が、空気の中で生きているように、霊は、 聖霊の中で生きているのだ!
 水道の水が、蛇□まで届いているように、 聖霊は、私たちの内にも外にち充満しておられる。水道の蛇□を開けば、水がほとばしり 出るように、私たちが心の蛇□を開けば(肩の力を抜いて、落ち着けば)、聖霊は私を支配してくださる。 私たちが意識しな〈ても、聖霊は、常に私たちに働 きかけておられることを忘れてはならない!

使徒信条解説一6
 
そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。 全能の父である神の右に座しておられます
 「右」は、聖書では、「神の側」を表わします。「左」は、「人間の側」を表わします。「神の右に座しておられます」とは、完全に神と共におられるということです。キリストは、神であるという告白です。
そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます
 いわゆる「キリストの再臨」です。聖書の時間についての考え方は、直線的で、「初め」があって、「終わり」 がある、という考え方で、東洋的な「輪廻」とは異なります。始められた方が天地創造の全能の神で、その神が終わらせられるのです。ただし、その終わりは、地球破滅という破壊ではなぐ創造の完成です。しかし、何もかもウヤムヤのうちに完成させられるのではなく、決着はおつけになるのです。
 それが、「最後の審判」です。しかし、この審判も単純に、信者が救われて、信者でない人が地獄に落とされる、というものではありません。「正直者がバカを見る」ということに決着がつけられるのです。この世に生き ていた間、不当に苦しめられ、痛めつけられ、非業の死を遂げた人が、そのままでは終わらない、という神の愛の決着です。「もっとも小さい者」に対して、どのような態度を取ったかが審判の基準です。神様は、人間の罪で「小さくされた者」と世の終わりまで共にいてくださるのです。

 こどもさんびか八九
 わたしたちはさかなのよう
 かみさまのあいのなかでおよぐ
 
 一、かみさまを さんびしよう
   そのあいはえいえん
   かみさまはうちゆうをつくられた
   そのあいはえいえん
 二、かみさまは たいようをつくられた
   そのあいはえいえん
   かみさまはつきとほしをつくられた
   そのあいはえいえん
               
             (詩、曲,佐久間彪)