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の び の び 講 座 一 4 「神を表した人」

石川和夫牧師   
「イエス・キリスト」を知らない人は、おそらく一人もいないであろう。ほとんどの人は、キリスト教の開祖と受け止めている。常識的に言えば、その通りだが、確かに、彼がいなければ、「キリスト教」は生まれていなかった、という意味においてである。
 しかし、イエス自身は、新しい宗教を起こそうという意図は全く持っていなかった。正確に言えば、弟子たちによってキリスト教は生まれたのである。
イエス・キリストと呼ばれた人物との出会いは、人の生き方を決定的に変える。そして、その出会いは、今日にまで及んでいる。

◆イエス・キリストは、キリスト教の開祖か?

「イエスは新しい宗教を、ユダヤ教をしのぐようなもう一つの宗教を起こしたわけではありませんでした。ユダヤ教の神『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』を信じ、ユダヤ教のおきて『律法』を、その『一点一角まで』正しく守ることを命じ、ユダヤ教の預言者たちのことばを我が身に実現することを受け入れ、弟子たちにもそのように教えたはずです。イエス自身、死ぬまでユダヤ教徒のままでした。」(本田哲郎「小さくされた人々のための福音」、新世社、1997年1月6日、第一版, 235頁)
では、なぜキリスト教が生まれたのか? イエスの生涯が、弟子たちに決定的な影響を及ぼしたからである。その言行、生き様、死に様、特に十字架での死が、彼らの生き方を根本的に変えてしまった。彼らは、イエスが人となられた神だと受け止めた。弟子たちは、どうして、そのように受け止めたのであろうか?私たちが、その原因を探るためには、福音書の記事を検証しなければならない。その前に、「イエス・キリスト」とう名の意味を探っておこう。
◆ 名は態を表す
名前   称号  
イエスス・クリストス(ギリシア語)⇒イエスは、キリストである
イェシュア・マーシアッハ(ヘブライ語)
ヨシュア     (イザヤ45:1) (神が共におられる)(油注がれた者)⇒「神の代理人」
@王 神に代わって統治し、裁判する
A祭司 神と人との仲立ち
 神に代わって罪を赦す

B預言者 神に代わって語る
 警告し、教え、励ます
イエスは、「キリスト」として、この三つの役割を果たされた、というのが、キリスト教信仰である。

◆イエスは、神であると共に人である、とは?

イエスは、「人となられた神」である。
私たちは、福音書を読むとき、最初から、「神の子」という意識で読みがちだが、当時の人々は、誰もそのようには見ていなかった。まず、私たちも「人間」として、イエスを見て見なければならない。生存しておられたときから後光がさしてはいなかったのだ。 イエスは、完全な人間として、神との関係において、従順であることによって、神を表した。(創世記2章のアダム)→善悪の知識の木に触れなかった。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-9)

完全な人間であるということは、我々と全く同じように、時間と空間の制約の中で生きられた。イエスは、我々と同じ「人間の限界」(善悪の判断の限界と生命の限界)を持って生きられたのだ。スーパーマンだったのではない!福音書に描かれている数々の奇跡は、イエスが「神の子」であるという信仰に基づいて描いている。だから、読むときに、まずは、その出来事の事実性にあまりこだわらないで読むほうがいい。
人間が善悪の決定者ではない!創造者なる神のみが最終的な善悪の決定者だ!
宗教すらも絶対的な善を持ってはいない!(宗教も間違う!)

キリスト教の歴史においても例外ではない(ガリレオ裁判、先住民族や異教徒に対して行ってきたこと……)
道徳的に完全な人間は、ひとりもいない。
イエス・キリストですら、道徳的に完全ではありえない。(「宮浄め」における暴力行為…マタイ21:12、マルコ11:15、ルカ19:45、ヨハネ2:15)、
カナン出身の女に対する差別発言…マタイ15:21-26、マルコ7:24-27、)

◆イエスは、なぜ十字架で死ななければならなかったのか?

イエスは、秩序(律法、道徳)を超えて、差別された人々の側に立たれた。
当時のユダヤ教は、秩序(律法、道徳)最優先であった。
イエスは、秩序破壊者として、処
刑された。特に、安息日の厳守について、イエスは、しばしばこれを無視して、病人の癒しを行った。形式的な規則よりも生命の尊さを最優先された。
貧富の差の激しい時代にあって、貧しい側に生きている人々の悲しさや悔しさを身をもって味わうと共に、富んでいる人たちの自己中心的な享楽主義を痛烈に批判され、貧しい立場の人たちの救いを懸命に模索した。
口で言うことは簡単だが、それを実行することは勇気が必要だ。
イエスの愛は、形式的秩序と人々の無関心(自己保身にとらわれて)に対するやむにやまれない怒りが込められていた、と言ってもいいだろう。
しかし、秩序を守ろうとする宗教的、政治的権力者たちは、大衆のイエス崇拝が無秩序を生み出すことを懸念した。
権力者側は、いつの時代でも民衆がおとなしく服従することを期待し、彼らが決起することを恐れている。
現代のテロリズムの温床も極端な貧富の差にあることを理解せずに、力で弾圧しようとしてもそれは決して無くならないことをアメリカの権力者たちも銘記すべきである。
テロリズム(無秩序な暴力的破壊)の撲滅ということは、一見正しく見える。
悪と戦うことは正しく見える。
しかし、歴史の中で、すべての戦争は、どちらの側にとっても悪と戦うという大義名分があったではないか!太平洋戦争ですら! 道徳的に正しいということのみで物事を判断しようとすると真実が見えなくなる危険が秘められていることを忘れてはならない。その意味で、イエスに対する裁判も当時の法律上では、間違っていなかったことを見落としてはならない。
イエスに対する裁判の判決は、決して冤罪ではなかった!
モーセの十戒に対する違反は、死刑だった。(出エジプト記31:14,15)
イエスの十字架の死を、冤罪の結果と解釈したことが、ユダヤ人差別の根源
★秩序が優先されると愛が見失われる!(差別が正当化される)
★人間の判断の限界の露呈

◆イエスは旧約の完成者

「わたしが来たのは律法や預言者(旧約)を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。」
(マタイ5:17)
イエスは、「旧約の破壊者」として処刑された。しかし、当時の宗教的リーダーたちは、旧約の契約を守ることを目的としてしまった。本来の旧約の目的を見失っていたのである。
旧約の目的は、神の祝福(愛)を全世界の人々に伝達すること(創世記12:3)
旧約の人々は、分離という手段を目的と混同した⇒選民意識…優越感→差別
古いイスラエル(選民)から、新しいイスラエル(世界に仕える教会)へ
「おおよそ人が、この世の海で溺れかかるとき、自分自身にすがりつこうとすれば、深みに沈むのは必定である。自分で自分を救おうとする者は、淵に落ちる。本来、自分を確固として保ってくれるものは、自分の外に<ある>はずのものだからである。
私たちみずからは、それぞれに神の永遠を映し出している存在である。イエスとイエスによってもたらされた福音に、命の根元をおいている。L・ウィルソンはマルコによる福音書の並行記事(8・34〜35)について、『このテキストの意義はその逆説にある。私は、イエスが誰であるかを見出すことによって、自分が誰であるかを知る。自己実現の道は、自己否定の道なのである』と述べている。
 ここで、あくまで大事に考えられるべきは、『イエスが誰であるかを見出すことによって、自分が誰であるかを知る』ことであろう。
自己否定あるいは自己実現という言葉は、こんにち常套句として手垢がつき過ぎてしまった。
信仰が、魂のまどろみであってはならない。たえざる問いと発見の道である。
自己が先にあって、これの安全保障をする宗教などというものから、キリスト教ほど遠く離れて在るものはない。およそ自己中心主義は、命を与える源から、人を切り離す。

ドイツの神秘思想家マイスター・エックハルトは、『もしひとが従順からして己れ自身の外に出るならば、その時にはこんどは否応無く神が彼の中に入って来られるにちがいない』と記し、『神は私よりも近くいます』とまで言っている。」
(森内俊雄「福音書(イエスの生涯)を読む」、教団出版局、2001年5月21日、初版、121-122頁)

◆イエスは、自由と愛のお手本

冷たいイエス…カナンの女との出会い(マタイ15:21-28、マルコ7:24-30)
意地悪なイエス…イエスの服に触れた女(ルカ8:43-48)
十字架の死において決定的に愛と自由を示された⇒次回
イエスの愛と自由において神を見る!  
イエスの生き方、死に方に逆説的な真理が秘められている。得るものは失う、とか集めようとするなら、散らせ、とか言われたことをご自分自身、そのように生きられ、死なれた。自由は、逆説の中にあることを示された。
「耳のある者は、聞くがよい」

気づくことが、救いである。順接的にだけ考えていては、決して気づく喜びを味わうことは出来ない。
自分のあるがままをしっかり見据えるとき、逆説の真理に導かれるだろう。 
 「病い」
病んで光よりも早いものを知った

病んで金剛石よりも固いものを知った

病んで
花よりも美しいものを知った
病んで
海よりも遠い過去を知った

病んでまた
その海よりも遠い未来を知った

病いは
金剛石よりも十倍も固い金剛石なのだ

病いは 光よりも千倍も速い光なのだ


病いはおそらく

一千億光年以上のひとつの宇宙なのだ

(村上 昭夫 1927年生まれ。結核で早逝)

使徒信条解説―4

主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受、字架につけられ、 聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、
いわゆる「処女降誕」のことです。処女降誕がありうるか、どうか、というレベルで考えないようにしてください。この信仰は、イエスが「人となられた神である」という信仰から派生したものです。ですから、信じ得るか、どうか、よりも私にとってイエスは誰か、という自己への問いを大切にしてください。その答えによって、この処女降誕の問題は、大したことではなくなると思います。

四つある福音書の中で、イエスの降誕について述べているのは、マタイとルカの二つだけです。罪の無い「神の子」なのだから、普通の生まれ方であるはずが無い、ということでしょう。ですから、これは、全く信仰に基づく告白なのです。
この告白が出来なければ、信者ではない、なんて割り切らないでください。
自分にとって、イエスがまことに「人となられた神」なのだ、と信じられるとき、この告白は、問題でなくなります。

ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
 これは、まず第一に、イエスの十字架の出来事は、歴史的事実であった、ということを示します。当時のローマ軍の駐屯地だったカイサリアで、この人の名前が刻まれた石碑が発掘されました。歴史上の実在の人物であったことが証明されました。
 もうひとつは、神が私たちの歴史に介入される方であることを示します。神は、天高く遠いところにおられるのではなくて、私たちの歴史に働きかけてくださる方です。
だから、私たちの信仰は、単なる「ものは考え様」というのとは違います。
精神的なものに過ぎないということではないのです。
神は、私たちの日々の歴史に共におられる。必要なときには、介入される方です。

 さらに、当時の正当な裁判によって処刑されたことを示します。
福音の真理は、逆説的です。
人間の価値観を優先しているところでは、決して裁くことの出来なかった、人間の価値観の限界が明白にされたことをも表明しています。