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の び の び 講 座 一 2 「神のラブレター」                                                 石川和夫牧師   
聖書は、古今、世界一のベストセラーである。聖書によって、人生を変えられ、聖書 が人生の支えとなっている人々は、無数にいる。この私自身ちその一人である。
だが、聖書は、ある意味では、読みにくい書物でもある。矛盾したことが書かれたり、なぜ、このような文書が、聖書の中にあるのか理解に苦しむものすら存在する。
聖書の読み方だって、いろいろあるようである。
歴史的な資料として、道徳の教科 書として、あるいは、文学的な作品として読むなど、人によって異なるし、同じキリスト教でも読み方が違う。
たとえば、ある保守的なキリスト教では、聖書の文字、一句、一句が神によって書かれたものだから、文字通りに読むべきだ、という考え方がある。彼らにとっては、地球の生成は、創世記に書かれているとおりでなければならない。なぜなら、聖書は、すべての真理だから。だから、学校で、ダーウインの進化論を教えることは、大変な間違いである。というわけで、学校で、創世記を教えよ、と主張して、裁判を起こしている。その主張が通ったところもあると聞く。
だが、私は、その考え方に反対である。

聖書に書かれていることが、すべて正しい、というのであれば、
だまし討ちしたり、近親相姦の記事は、どう読むのか?
新約聖書には、女性は、男性に従うべきだ、なぜなら、女性が先に蛇にだまされて禁断の木の実を食べているので、男性より罪深いから、と書いているところだってある。(ーテモテ2:11?15)それが、そのまま真理だと主張できるのか?適当にこじつけて解釈しなければ、時代錯誤の書物になる。

「ものみの塔」のグループに至っては、自分たちの都合の良いところだけを取り入れて読んでいる。しかも言葉じりだけ捉えて。頑固に、輸血を拒否するのも、そのような読み方から来ている。

では、どのような読み方が、ふさわしいのか?そのことを共に考えてみよう。
◆聖書は金言集ではない
まず、聖書を教科書や金言集として読もうとすると、どうしても先ほど述べたような無理が生じる。
これを仏教のお経と比べると分かりやすいだろう。

お経…仏教の教典⇔金言集…教え「摩訶般若波羅蜜多心経」(まかはんにゃしんぎょう)
(「般若心経」の経題)

「よく『名は体を表わす』というように、本文はわずか2 6 6字ですが、その一字一字に『ほとけ』のいのちが 躍動しています。」(松原泰道「般若心経入門」、祥伝社,、1975.3.5.100 版、42 頁)
お経は、一字一句に、深い意味が秘められている。ある種の哲学といってもいいかも知れない。だから、専 門家による解説が無ければ、とても読み込むのは、むつかしい。
しかし、少しでも意味が分かってくると、とても親しみやすくなる。私も個人的には、お経が好きである。
だが、聖書は、根本的に、成り立ちが違うのである。
聖書…キリスト教の教典
金言集ではない…信仰文学的歴史
 
●神のラブレター

「聖書は神さまから人類へのラブレタ一だと言った人がいますが、私に言わせれば、神さまはその時、相手のことを考え、思い切って同じ人類の仲間にラブレターの代筆と配達をまかせたのでした。」
(浅見定雄「旧約聖書に強くなる本」、日本基督教回出版局、1977.8.25.初版、11頁)
●手紙…歴史的事実に基づく→イスラエルの歴史
聖書の大きな特徴は、歴史的な産物であるということだ。すべての文書は、背景に何らかの歴史的事件がある。その背景にある歴史を理解しないで読むと、「ものみの塔」や、保守グループのような読み方になってしまう。
一時流行ったノストラダムスの「大予言」などもそういう間違いをしている。ヨハネの黙示録を現代に無理やり当てはめて読もうとしたからである。あの書は、一世紀のドミティアヌス皇帝のキリスト教大迫害のときに書かれて、あの時代のクリスチャンを激励するのが目的であって、20世紀も後のことを「予言する」つもりは、さらさら無かったはずだから。
◆聖書は神の民(イスラエル)の信仰文学的歴史
The Bible
ギリシア語biblos…エジプトのナイル河畔に群生しているパピルス(papyrus)の茎の芯のこと→paperの語源→書物-「一冊の書物」→「唯一の書」、「書物の中の書物」→「聖書」
もともとパピルスに書き付けられた巻物だった。だから、ある程度の長さになると持ち運びに不便になるので、二冊に分けられた。上下があるのは、その故であった。
キリスト教の正典としての聖書は、旧約、新約の二つから成っている。両方を含めて「聖書」となる。しかし、比較的最近まで、キリスト教会では、新約のみが尊重されてきたきらいがあった。それが、「キリスト教の傲慢」を生み出した。新約を教科書的に読んだ。旧約には、教科書的に読むには、ふさわしくない物語が多かったからである。その経緯を探っておこう。The Holy Bible→The Old Testament
The New Testament(契約)
契約---大陸(砂漠)文化圏では、「信頼のしるし」
神が人類と契約を結ばれた。
その代表が、神の民(イスラエル)
◆なぜ新しい契約が必要だったのか?
古い契約の意図⇒世界の祝福の源となる(創世記12:1〜3)⇒愛の伝達者になる古い契約の民(イスラエル)の誤解…手段である「分離」が目的となった。
契約を守ることが、目的になってしまい、契約の本来の目的を見失った。
契約を守る者義人(正しい人)(選民)
契約を守らない者、契約を結んでいない者、罪人、異邦人
「選民」意識が無意識のうちに異教徒に対する優越感となった→愛を失う
契約の違反は死、そのシンポルとして、動物を殺し、それを二つに裂いて、流された血の間を通り抜けることによって、契約が成立する。(創世記15:1〜21)

秩序、法律、建前が優先されると、愛が失われる!

イエスは、神の民を本来の使命に立ち返らせようとした→新しいイスラエル(キリスト教会)
「わたしが来たのは律法や預言者(旧約)を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マタイ9:13、マルコ2:17、ルカ5:32)
◆聖書の成り立ち
 [旧約の成立](三時代)
 @ 紀元前11世紀??伝統的なイスラエルの部族連合が崩壊し、王制へと大きな変化を見せた時代
 A 紀元前8世紀----アッシリアによって北王国イスラエルが滅亡し、
   南王国ユダもその脅威を受けることとなった国家的危機の時代

 B 紀元前6世紀------アッシリアの重圧から抜け出た新バビロニアによって南王国ユダも滅亡し、
   主な人々がバビロンに連行された国家的危機の時代(この時代に創世記?列王記下が編集された)

   民族の「死」
    [新約の成立]
   紀元4世紀
   「イエス.キリストの復活を信じた人々によって、教会が全世界に生まれ、
   色々な考え方が出てきたために「正典」が決められた。
神の子(イエス・キリスト)の「死」
  二つの「死」(イスラエル民族とイエス・キリスト)がなければ、聖書は生まれなかった!
◆聖書の構成
  聖書は、巻物の集合体
  旧約 39巻 新約 27巻 計 66卷
◆旧約を土台としていないキリス卜教は、新しい律法的ユダヤ教になる
聖書全体の序論……創世記1章〜11章
神話(歴史的事実と混同しない) 聖書は、宗教の書科学過程の追求…客観的宗教意味の追求…主観的創造物語を、歴史的、科学的事実とすることは、ガリレオ裁判の過ちの繰り返し創世記1章〜12章……聖書全体の序論創世記12章以降……歴史時代(神の民の信仰文学的歴史)
創世記には、信仰的で立派な人物ばかりではなく、とんでもない物語も掲載されている(34章など)。私が編集者だったら、決して掲載しないだろう。なぜ、そのような物語まで掲載されているのか?
創世記の編集者は、読者を信じている。ということは、すべての罪を覆って、赦してくださる神の愛を信じている、ということだ。人間のあるがままの姿が、包み隠さず、これでもか、というほどに示される。隠されている神の愛を読者が読み取ることを編集者は信じている。このことを読み取らなければ、聖書の醍醐味は分からない。
神は、あるがままの人間を愛しておられる。
「善悪の知識」をふりかざして、神にとって代わろうとする人間の傲慢をお許しにならない。イエスは、そのことを明らかにされた。神に愛されるために、「資格」など必要ない。
道徳的には、問題の多かったダビデを神があれほど愛されるのは、どうしてなのか?ダビデは自分の「善悪の知識」の限界をよく知っていた。だから、ことあるたびに神の前にひれ伏して祈り、許しを乞うた。問題もあり欠陥も失敗も多かったが、ちょうど腕白な子どもが何かがあれば母親の懐に飛び込むように、神の懐に飛び込んだ。神様から見れば、「可愛い子」だった。 旧約は、お説教がましく、神の愛を説いたりしないが、旧約の物語そのものを通して、懐の 深い神の愛を語っている。旧約には、「福音」が隠されている。イエスは、それを明らかにされたのだ。旧約に隠された福音を読み取らないで、「善悪の知識」に従って、新約偏重になると「新しい律法的ユダヤ教」になる。旧約時代も新約時代も神に変わりは無い。人間の受け止め方がおかしかっただけである。
◆聖書の読み方
聖書は、人の書いた神のことば
限界→時間→空間(いつ.どこで)
動機(なぜ、何のために)…歴史的背景
個性→特徴(どのように)…表現のスタイル
旧約の特徴…古いイスラエルを力づける「皇国史観」に似ている(ある種の誇張)客観的な事実を想像する必要がある
聖書の特徴…数字におおらか量を表すよりも質を表す
7(3+4)、12(3X4)4完全数→神聖、全世界、40→苦難、継続、あんまり数字にとらわれてはいけない。 いずれにしても、聖書の原材料は、伝承だから、いろいろな形での誇張が加わるのも自然の成り行きだ、ということは、自分自身の過去を語る場合を想像すれば、すぐ分かるだろう。人の知らない話を何度も語っているうちに、自然に尾ひれがついてしまっている、そのことに自分も気づかない、ということだってある。
特に、他の人が経験しないで、自分だけが経験した驚嘆すべき出来事は、自然に、誇張して語るだろう。
新約のイエスの復活についての証言など、その典型だ。誇張しないではいれなかった、その気持ちを汲み取ることだ。
このように、聖書を読み取る努力を繰り返していると、現実の生活に必ず新しい発見が伴うようになる。隠されている神の愛に気づくようになれば、「毎日が聖書」ということになる!
聖書の正しい読み方は、必ず実在した著者の意図をできるだけ忠実に汲み取る読み方

使徒信条解説一2
天地の造り主、全能の父である神を信じます
天地の造り主
私たちの信じる神は、まず第一に、すべての根源であるということです。
「人あるがゆえに神あり」ではなくて、「神あるがゆえに人あり」ということです。私たちはこの神によって存在の意味と目的をもって造られたのです。無意味に存在する生命は、ひとつも無いのです。

全能の「全能」ということは、何でも出来るということですが、人間のように、気分の赴くまま何でも出来る、ということではなく、愛において、何でも出来る、ということです。愛において、神は決して間違いはなさいません。人間には、そう見えない場合もありますが、それは人間の知覚の限界のせいです。時がたてば必ず分かる、と信じましょう。

最近は、神が男性であるのは、性差別的だ、という意見もありますが、父という言葉によって、親を示す、と考えるとよいでしょう。親は、子どもを保護し、教育と訓練を施し、愛情をかけます。そして、子どもの将来を見守り、必要なときには、救いの手を差し伸べてくださる。
そして「万事を益となるように」導いてくださいます。