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の び の び 講 座 一 10 「完全な愛を目指して」(キリスト者の生活)

石川和夫牧師   
  「我々もお互いに光に向かっておのが道を静かに進もうではないか。
  『心を高めよ』だ。自分たちが他の人と変わることなく、他の人たちも自分たちと同じであることを知り、お互い同士愛し合うべきであることをよくわきまえ、最善の道においてはすべてを信じ、すべてに望みを持ち、すべてに耐え、決して躊躇することなく進んでゆこうではないか
   …君を愛する兄、ヴンセント」 (V.V.ゴッホ、弟テオへの手紙、1878年4月3日)
 ヴァン・ゴッホは牧師の息子であるが、自らも炭鉱夫たちへの伝道をしたこともある。
 人生の暗い面ばかりを見て来た彼は、重く暗い色彩で農民や労働者の日常生活を描いた。しかし後になって南仏アルルへ 移ってからは、自分の画法を見出し、色彩も明るくなっていった。
 様々なテーマをいつも同じ情熱的な色と光で描いていった。
 キリスト教的なテーマと言えば、この「善いサマリア人」のように、古い名作を真似て描いたもの位である。 恐らく生家での経験が妨げになったのであろう。加えて、彼の時代の宗教画の沈滞も影響を及ぼしている。
 ただ、「太陽」や「種蒔く人」では、彼が宗教画をどう見ていたかを察することができる。
 この絵は、ドラクロアの名画を複製、改作したもので ある。ヴァン・ゴッホがいかに真剣に聖書のテーマと取り組んでいたかが分かる。
 倒れている人をそっとロパ に乗せようとしている善いサマリア人の姿には、ヴァ ン・ゴッホが「愛」と呼ぶ内心の興奮が伝わってくる。
 この絵はこの時代の最高の宗教画の一つである言えよう。
 このモチーフは今世紀の画家が度々取り上げる。ま さに我々現代人のテーマだと言えよう。
    (G.ニユルンべルガ「キリストのか面(かお)」、音響映像グル -プメディアセンター、145頁)

◆愛がなければ、無に等しい
 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろ うとも、
 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、 やかまし いシンパル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等し。
 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
 愛がなければ、わたしに何の益もない。」

                      (コリント一 13:1-3)

 愛は、相手の喜ぶことをしてあげることだ、と思われている。確かに、それも、いいことには違いないが、「小さな親切、大きなお世 話」ということもある。よく世間で聞く「親切おばさん」とか、「世話好き」というタイプは、人々にとって、ありかたいこともあるが、たまには、少々迷惑、ということだってあるだろう。つまり、本人は、自分が「親切の塊」と思い込んでいる場合、その人の親切 を断りにくい。断ると怒るだろうと予測され るからだ。つまり、この人は、道徳的に「良 い」ことをすべきだと信じている、というこ とである。 しかし、パウロの言葉は、鋭い。全財産や 自分の命をあげても(道徳的には、最高のこと)、愛が無ければ、一切は無益だ、という。 これは、どういうことなのか?

◆愛は、道徳(行為)ではなく信仰(存在、 在り方)である
 Love is not Doing,but Being. (何かをしてあげることではなく、側にいること)
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。
 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、す ぺてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

                                         (コリント一 13:4-7)
 灰谷健次郎氏の作品の一つ、「子どもの隣り」の終りの部分に、こんな物語がある。
 男の子が公園で父親とベンチにかけて、 いろいろと話していた。突然、男の子が父親に尋ねる。
 「パパ。パパは女の人といっしょにおふろにはいつたことある?」 なぜ、そんなことを聞くのかといぶかった。
 父親は、駅に寝泊りしている痴呆気味のおじいさんがロマンポルノをやっている映画館に連れて行って、
 その映画で見たことを知り、そのおじいさんに文句を言いに行く。
 男は一気にしやベって 「二度とそんなことはしないでください」 声の調子を強めた。
 老人はぼんやり男の子を見た。そして 「としぼん、いこか」といった。
  男の子の目がおびえた。
 「なんやこのオジン。このごろようすがおかしいで」と隣りの老人が男にいった。
 「ぼく、としぼんとちがう」 顔をひきっらせながら男の子はじりじり後退りした。
 その夜、男は子どもの泣き声で目を覚ます。
 死ぬのがこわいという。あのおじいさんが、 もうじき死ぬと言ったので、かわりに死んであげると言ったが、
 実際は、死ぬのがこわい。
 男はそっと子どもを抱きしめた。抱きしめるほかになにもできなかった。
 つぎの日、男の子は保育園で小さなおとむらいをした。
 兎の子が生まれて、すぐ死んだので子どもたちは兎の子を、けやきの木のそばに埋めた。
 男の子はずうっと三歩くらい後ろにさがって、その作業を見っめていた。
 みんながその場所を去ってからも、男の子はじっとそこにいた。
 ひとりの保母が声をかけた。
 「タアくん、兎の子死んじやったの?」 男の子のそばにきて保母はしやがんだ。
 「どこに埋めてあげたの?」 男の子は黙って、そこを指さした。
 「死んじやったの。かわいそうね」 その保母は男の子がなにか口の中でつぶやいているのに気がついた。
 「あれっ、タアくん、なに言ってるの」 男の子の口もとに耳を近づけた。
 そして男の子のつ ぶやく通りに、それを声にした。
 「死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。ここにおるも一ん。
 死んでも、死んでも、死んでも、死んで もいい。また、生むも一ん。」
 あら、とその保母はいって男の子の顔を覗きこんだ。
 「死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。ここ におるも一ん。
 死んでも、死んでも、死んでも、死んで もいい。また、生むも一ん。」
 歌をうたうようにその保母は男の子のことばをくりか えした。
   (灰谷健次郎「子どもの隣り」、新潮社、 235-241頁)
 
 この男の子は、してあげるのではなくて、 いつも側にいようとしていたのだ。「してあげる」ことは、自分に点数を積み上げ、結果は相手のせい 相手に「ありがとう」を言わせる 「されたこと」への感謝、「ありがとう」を見出す心、感性 イエスが、そのお手本与ザアカイに対する姿 勢(ルカ19:1-10) サマリアの女に対する姿勢(ヨハネ4:7)
愛は、ありがとう!
◆愛することのない者は、神を知らない
 「愛する者たち、互いに愛し合いましよう。
 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
 神は、 独り子を世にお遣わしになりました。
 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハネの手紙一 4:7-9)
 「いまだかつて神を見た者はいません。
 わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、
 神の愛がわたしたちの内でまっとうされているのです。」
(仝4:12)
 
 自分には間違いがない、悪いことをしていないと自信があれば、神を知る必要はないだろう。
 けれども、どこからともなくしのび寄ってくる心の隙 間、ひたひたと寄せてくる孤独感や寂しさなどを感じるとき、
 それが神の呼びかけなのである。
 自分の心のなかに、なにか得体の知れない領域がある、と感じはじめることが、神に関心を持ちはじめる兆しである。
 「私とはなにものなのでしよう」と、疑問を持っことが、神の入口に立つこ である。
   (重兼芳子「癒しは沈黙の中に」、春秋 社、121頁)
 愛するためには、まず、他人にかかわらな ければならない。
 かかわらなければ、自分に傷つくことはないが、必然的に、孤独に陥る。
 しかし、他人とかかわると、うまくいけば 嬉しいが、うまくいかなければ、つらい。自分が傷つく。
 その時に、それを他人のせいにしないで、自分のこととして考えると迷路に入ったり、自己嫌悪に襲われたりする。
 重兼 さんに言わせれば、そのことが神の呼びかけだ、と言う。
 つまり、愛さないものは、神を知らない、ということになる。
 だが、人は、他者とかかわらないで生きることは不可能である。
 ということは、わたしたちは、絶えず、神からの呼びかけを受けている、ということではないか。
 人間関係の失敗は、神への入□なのだ!

◆愛することは、許されること
 すべての苦しみの根源は
 無条件に無制限に
 人を許すという
 その一念が消え失せたことだ

                   (八木重吉)

 「日本の『ひと』というのは、必ずしも、英語でいうman、 woman、person、human beingに当たるものでは なく、むしろ、自分の行動を見張っているグループ----世間----を意味しています。だから『ひとなみの生活』といえば、動物と比べての人間らしい生活というよりも、むしろ、『他の人』と比べて見劣りしない生活という意味が強いのです。たしかに日本では、『人間』という言葉が表現するように『ひと』と『ひと』の『間』=世間が、 神と人との間より重んじられていると言えましょう。
 盗み、殺人、贈賄、詐欺等を働いて、捕らえられた時、その人たちが言う言葉、それはほとんどの場合、『世間さまをお騒がせしてすみませんでした』という言葉です。果たして、その人たちは、自分が犯したことに対し本当に申し訳ないという罪の意識を持っているのだろうかと疑う時があります。それとも、捕まったから、そう言っているのであって、捕まらなかったら『うまくやってのけた』という感覚なのでしょうか。
 人間には、良心というものがあるはずですから、きっと、これらの人たちにも『悪かった』といういっときの心の痛みはあるのでしょう。あってほしいと思います。でも最近、こういう心の痛みが徐々にうすらいでいるように思うのです。」
   (渡辺和子「愛することは許されること」、PHP研究所、1993年8月20日第1版第1刷、 71,72 頁)

◆愛は感じたまま(考えない)!
 「考えた」愛は、裏切られると他人のせいにする
 「考えない」愛は、裏切られたら、素直に 「ごめんなさい」と言える。
 うまく当たれば、素直に「よかったね」と一緒に喜べる→記憶に残らない
 愛=感受性
  @ よく見る(注目)
  A よく聴く(傾聴)
 愛=(気持ちの)「受容」
 愛は評価しないで共感する

  愛は、失敗において成長する⇒感受性のアンテナをしっかり立て直すことになるから
  見当はずれの言動、態度
  自分に「待てよ」と言えるゆとり(間違っているかもしれない)
            ↓
           ユーモア

◆究極的な愛の完成は、終末(完成と発表の時)
 「わたしたちは、今は、一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

                                       (コリント一 13:12)
 ファジー(中途半端)の受容⇒「完成と発 表の日」への期待→消えない希望
 「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、 いつまでも残る。」(コリン!13:13)
 愛の成長に?がらない信仰は、自分のためだけの(御利益)信仰→「道楽」
 祈りなしこ愛は成長 しない
 最前の祈りは、主の祈り⇒自分を知る祈り
 わたしのために祈ってもらう⇒他者の助けを必要とする
 (□ーマ15:30,コロサイ4:3,テサロニケー 5:25,テサ□ニケニ 3:1)
 祈られている確信が大胆に聖霊に委ねさせる→肩の力が抜ける→積極的に成り行きに委せる
 「私は倒れても大丈夫」という確信=復元力への信頼


 素朴な琴
 この明るさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐えかねて
 琴は静かに鳴りいだすだろう

                  (八木重吉)

                   使徒信条解説一10
 からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。
 からだのよみがえり

 からだのよみか'えりを信じるということは、裏返せば、「死を信じない」ということです。
 肉体の滅亡が死です。しかし、その死で、すべてか'終りなのではありません。
 パウロが述べているように、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活(コリン!15:42)するのです。
 「自然の命の体が 蒔かれて、霊の体が復活するのです。
 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(同15;44)
 その点で、肉体は滅びるが霊魂は死なないという「霊魂不滅」とは、一線を画しています。
 永遠のいのちを信じます
 これは、単なる永世不死とか、無限大の命の延長を指しているのではありません。
 生きていても死んでいても私たちは永遠に神のものである、ということです。
 永遠の生命は、神の前、つまり神に面してのみ、考えられます。
 「永遠の生命」は「我神を信ず」抜きでは意味を成しません。
 「信仰の秘儀」な のです。だから、「来世は現世の力」(ボンへッファ-)となるのです。
 ボンへッファーは死に直面して、こう言っています。
 「死に臨みつつ、今、神の御顔の中に、お前自身をさだかに見る。」死も神の手の中にあるに過ぎません。