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 『本物のクリスマス』

 石川 和夫牧師

 

 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

この方こそ主メシアである。

(ルカによる福音書二章一一節)

 世は、挙げてクリスマス・ムードである。かなり前であるが、商業化されたクリスマス・ムードに抵抗を感じて、「ほんもののクリスマスは、教会で!」と絶叫したことを思い出す。キリストを信じてもいない者たちに、なにがクリスマスだ!というのだ。

  しかし、今となって思うことは、なんという傲慢な考え方をしていたのだろう、ということである。極めて単純に、キリストを信じている教会には、ほんもののクリスマスがあって、世間のクリスマスは、すべてインチキだ、と断定している。

 これは、イエスの時代のユダヤ教と全く同じ発想ではないか!割礼をし、律法に従って生きている者のみが、神に受け入れられ、律法に従っていない、または、律法と無関係に生きている異邦人たちに、神は見向きもしない、と思い込んでいる。このような発想を根底から覆したのが、イエス・キリストである。

  イエスの降誕物語は、史実ではない、という意見が多くなってきている現代だが、たとえ「物語」としてもイエスの降誕物語には、神が人となられた、というキリスト教信仰の極めて深い真理が秘められている。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉は、誰に語られたものか?

 全世界からベツレヘムに帰ってきていた誇り高き「ダビデの家に属し、その血筋であった」人々は、この天使の言葉を聞いていない。彼らは、久しぶりの再会に興奮し、にぎやかに談笑していたか、その談笑に疲れて眠りこけていたか、のどちらかであった。つまり、「信仰深い人」たちは、天使の声を聞いていない。従って、彼らにクリスマスは訪れてはいなかった、ということに注目しなければならない。これを現代に当てはめれば、キリスト教会だからといって、必ずしもクリスマスが訪れるとは限らない、ということだ。

 誰に訪れたか、といえば、ベテレヘムの喧騒の只中にいたダビデの血筋の人たちではなく、彼らには、おそらく全く無縁の、そして眼中にも無かったベツレヘム郊外で野宿して羊の番をしていた羊飼いたちに訪れたのだ。彼らに、信仰があったか、どうかは分からない。ただ確かなことは、彼らは律法に忠実には生きていなかった、いや生きられなかった、ということであろう。「真面目な」信仰者たちから見れば、不信仰な、かわいそうな憐れむべき人たちだった。

 しかし、羊飼いたちにすれば、人々の蔑みの眼に耐え、人知れず悲しみつつも、これ以外には生きる道はないので、それなりに明るく陽気に生きていくだけだったろう。その羊飼いたちにクリスマスのメッセージが届けられる。

 第二次世界大戦の末期、ヒットラーの暗殺計画に加担したとして、捕らえられ、ついには処刑されたボンヘッファー牧師が、こう言っている。

 「私たちのうち誰が、クリスマスを適切に祝うのでしょうか。それはようやくにしてあらゆる権力、あらゆる体面、あらゆる名声、あらゆる虚栄、あらゆる高慢、あらゆる頑なさを飼い葉桶のかたわらに捨て去る人たちです。それはまた、身分の低い者たちに味方し、神のみを高くあらしめる人たちであり、飼い葉桶の中の幼子の、まさに卑賤そのものの中に神の栄光を悟る人たちです。」

 イエス・キリストの生まれた時代は、いわゆる「ローマの平和」(PAX ROMANA)の時代であった。しかし、それは現代と全く同じ「力による平和」で、無数の人々が圧政に苦しみ、無視され、差別され、貧困に陥れられ、少しも「平和」ではなかった。

 クリスマスは、それらの人々のためにあったのである。賛美歌二一の二四一番の二節に、

 

「嘆きの地は 主の愛 受け

 希望の光はのぼる。」

とある。そうなのだ。あらゆる「嘆きの地」にある人々、誰にも言えない不幸な宿命を呪いつつも、努めて明るく振舞い、涙を隠している人々、そのような人々と共に自分の無能と怠慢に嘆き、苦しみ、悲しんでいる人々に「平和と喜び」のメッセージが届けられる、それが、クリスマスなのである。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

(マタイ二八・二〇)

と言われる方が人となってくださったからである。