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『なにものの おは(わ)しますかは 知らねどもただかたじけなさに 涙こぼるる』

             石川 和夫牧師

 

 誰の歌かは忘れたが(礼拝後、「鴨 長明」だと教えてくださった方がいた、ありがとうございます)、確か、伊勢神宮にお参りに行ったときの歌だったと記憶している。私も伊勢神宮に行ったことはあるが、あの美しい木立と玉砂利、拝殿のバランスのとれた美しさは、一種の厳粛さを覚えさせられた。が、これが典型的な日本人の神観であることに間違いはない。

 普段は、神様について考えたこともないが、そのような場所に遭遇したときに、神様の存在を感じるのである。

 我々キリスト者も気をつけないと神様のことを同じようにしか考えていないかも分からない。普段は、生活に追われて神様のことなど考えもしないで過ごしているが、礼拝の時にだけ神様の存在を意識する。教会にいるときは、「神様、神様」と言っているが、普段は全く考えもしないとすれば、「涙をこぼした」鴨長明さんのほうが、よっぽど立派かも知れない。

 出エジプト記三章は、聖書全体の中でも最も明瞭に神とは、どんな方であるかを示した個所だと言われている。二つある。

 一つは、

「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、

イサクの神、ヤコブの神である。」(六節)

今ひとつは、

「わたしはある。わたしはあるという者だ」(一四節)

 歴史の主 (神)

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」ということは、アブラハムの時に共におられたと同じように、次の跡取りのイサクの時にも共におられ、さらに次の跡取りのヤコブの時にも共におられた、ということである。つまり、時の流れ、つまり歴史と共におられるのが、聖書に示されている神だ、というのである。

 聖書に示されている神は、単なる「出来事の神」ではない。お産のときには、どこの神様、受験に効き目があるのは、どこの神様、縁結びは、どこの神様、そのような「出来事」に関係なければ、全然「お呼びでない」神様とは違う。これらの神様は、いわば人間の都合に支配される神様、人間の欲望や期待に応えてくださる神様に過ぎない。今、世間を賑わせている「宗教」の神様は、どれもこのたぐいの神様である。はっきり言えば、人間の欲望に仕えてくれる神様にほかならない。これらの神々を「偶像」と呼ぶ。

共にいる神

「わたしはある。わたしはあるという者だ」というのは、はっきり言えば、日本語ではない。日本語には、こういう言葉はない。だから、なんのことだか、さっぱり分からない。聖書の翻訳に当たった学者たちは、我々とはちょっと異なる頭脳の持ち主だから、このことは百も承知で、このように翻訳されたのであろう。多分、いろいろと意見が分かれて、結局、このように落ち着いたのかも知れない。だから、個人の意見となると、はっきりしている。もうすでに亡くなられたが、左近淑(きよし)先生は、分かりやすい表現をしておられる。

 「わたしがいるのだ。確かにいるのだ。」(「混沌への光」)

 ここには、やはり共にいるというニュアンスが、はっきりしている。これが、犬養道子さんになると、もう一つはっきりしてくる。

 「わたしは在る者(ヤーウエ)。

 今後おまえ(たち)が体験する日々を通して少しずつ知ってゆく者。」(「聖書を旅する」?、古代史の流れ、旧約聖書)

 このことについて、犬養さんは、続いてこう述べている。

 「人間は刻々、成ってゆく者。嬰児が幼児に、少年少女に、青年に壮年に、そして……去る。それとはちがう、普遍不動の在る者。(主は)いつも生きている者(列王記上一七ノ一)。それなら、どうして一瞬のうちに、一語の答でわかろうか。「在る者」と「成る者」とでは土台、存在のしかたがちがうから。少しずつ少しずつ、出来事や人々との出会いの体験を通し、忘れな草やからし粉のような豊穣の「ことば」を秘めるしるしを通して、「在る者」とは何かが啓され(あらわされ)示し出されてゆく、のである。」(前掲書)

 言ってみれば、日々のあらゆる経験の中で、神が何をなさろうとしているのかをしっかり考え、受け止め直す、ということが、「神を信じる」ということなのである。このことは、聖書の読み方にも大きくかかわる。普段、聖書研究会で、繰り返し私が主張していたのと同じことを犬養さんが言っておられるので、引用してみよう。

 「では、聖書の読み方の要点は?」

もはや不要な蛇足かもしれないが、まず第一、書かれた文字だけを眼の中に通過させないこと。しばしば、文字どおり、読んではならないこと。これは非常にだいじ。次には、日頃から、一見つまらぬものごとや出来事であろうとも、あるいは大きな出来事・出会いであろうとも、表面だけをとらえずに背後にひそかにかくされた何ごとかを読みとり聞くくせを、読む準備ともして、身につけるのが好ましい。

 身につけるためには、何をおいても、出来事やものごと(事象さまざま)をよく見てゆっくり考えめぐらすことが必要になる。すると、聖書の場合びっくりさせられるほど多くの人がしている読み方――これを私は聖書セミナールを何回か方々でやるさいちゅうにいやというほど知らされた――をつづける限り、聖書はその人々に「何ひとつ語らない」という事実が出て来る。

 多くの人の読み方は、「いま、苦しいから」、「いま、悲しいから」、「いま、大問題を抱えているから」、聖書を開いたなら、何かのヒントがみつかるかもと思って、、ぱらぱらと方々をを開けてみる読み方。つまりはこちら(読み手)の都合にあわせた「つまみ食い」。心の視線の向かっている先は、「いまの自分の苦や大問題」なのである。

 聖書は、あなたや私のいま抱えている問題、たとえば姑や夫とのまずい関係とか、意地わるく気難しい上役と日毎つきあわねばならぬ重荷とか、財政経済上の問題とか、恋愛や入試問題とかを解決するために書かれた書物では決してない、のである。『そんなこと、わかっている』? さあ。」(前掲書)

結論は、物事の判断を自分の持っている「良い、悪い」の価値観で決め付けないことである。

 創世記二章の「エデンの園」の物語の中で、主なる神が命じられたこと、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」は、そのことを示している。最終的に良いか、悪いかは、創造者であり、全能の神以外には誰も分からない。宗教といえども、勝手に判定してはならないのだ。残念ながら、キリスト教を含めて、特に、共通のアブラハムを先祖としている(旧約を土台としている)ユダヤ教、イスラム教が、これまで互いを拒絶し合って来た傲慢さを互いに反省しなければならない。

ユーモアを持って生きる

 自分の「価値観を相対化できると不思議なことだが、心にゆとりが生まれる。ユーモアが生まれる。信仰者に共通するキャラクターは、ユーモアだ。上智大学のアルフォンス・デーケン教授は「ユーモアを身につけよう」と提案して、ユーモアの要点を次のように挙げておられる。

☆ ユーモアと笑いは、自分の限界を認め、自己を相対化することから生まれる。

☆ユーモアとは、安っぽい冗談や軽率さ、単なる楽観主義や偶然の幸運の表れではない。真のユ   ーモアは、他ならぬ悩みや苦しみのさなかに見られることが多い。

☆ユーモアと笑いは、ストレスや怒りを和らげ、人間関係を円滑にする。

☆ユーモアとは、「にもかかわらず」笑うことである。

☆ユーモアの原点は、周囲の人々のために暖かい雰囲気を作ろうと願う思いやりの心である。

☆ユーモアは、人の心を自由にし、円熟と一層の人格成長をもたらしてくれる。

 だから、物事に捕らわれなくていいのだ。私たちの神は、「わたしはある」と言っておられるのだから。星野富弘さんの詩にこんなのがあった。

 あなたは私が

 考えていたような

 方ではなかった

 

 あなたは私が

 想っていたほうからは来なかった

 私が願ったようには

 してくれなかった

 しかしあなたは

 私が望んだ何倍ものことを

 して下さっていた