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   聖霊の 【しかし】

            石川 和夫牧師

同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、

"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。

"霊"は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、

万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

(ローマの信徒への手紙六・二六―二八)

 いよいよ具体的に大きな冒険に踏み出そうとしている。考えてみれば、みるほど、これは大変なことだと思わないではおれない。私たちが会堂建築の決意をして十年以上経過している。検討した物件は、五十を超えた。何度か購入を決断したときもあったが、先に買われたり、契約を拒否されたりで、ズルズルと長引いてしまった。私たちもシビレが切れそうになったときに、この物件が現れた。当初は、約一八〇坪を約一億八千万円で、という話だったから、私たちには「高嶺の花」ということで、見送った。いい場所だから、すぐ売れるだろうとあきらめていた。ところが、数ヶ月売れないままで、値段も坪あたり九〇万円となったので、思い切って、百坪だけ買うが残りを貸してくれないか、と提案してみた。すると急に幾つかの買い手が現れた。まとめて全部買いたいというマンション業者、一部分を買いたいという建売業者などである。

 こうなると、不思議なもので、この場所がどうしても欲しいという願いが出てきた。なんとかして一八〇坪全部を使うように出来ないか、と交渉を進めてみたが、地主さんには、貸す余裕がないことが分かった。結局、八〇坪を建売業者が、一〇〇坪を永山教会で、ということに落ち着いた。駐車場の問題は、近隣の駐車場を借りる努力をすることとして、ちょうど、九月の定例役員会直前だったので、建築小委員同席の役員会で、購入の決断をし、七月の臨時総会の承認に基づいて、手付金九〇〇万円を支払って契約に入ることを決定した。

 時、あたかも一九九九年九月九日、唐木田の和光ハウジング。ビル五階応接室で、武田勝雄さん、鈴木喜久二さん立会いのもと、地主の全権委任者、馬場恒和さんと乞田一二二五番地の一〇〇坪を九〇〇〇万円で購入する契約書を交わした。その折、地主さんから新たな提案が出され、建売業者が八〇坪ではなく、六〇坪を買うことになったので、残り約二〇坪を一〇〇〇万円で買ってくれないか、との提案を受けた。支払いは、十月末に七〇〇〇万円、十二月末に残額二一〇〇万円とするという条件でよければ考慮しましょう、と返答した。

 九月一七日の会堂建築小委員会で協議した結果、この際、まず土地の確保を優先する、という考えに立って、地主の提案を受け入れることを役員会に提案することに決定、九月一九日の臨時役員会で、これを承認、臨時総会に提案することとなって、今日に至った。

 現在の建築総予算一億五千万円では、建築の予算は、三五〇〇万円しかなくなるが、これは、もう少し時間をかけてみんなでよく話し合いながら、結論を見つけたい。今年の定期総会では、坪八十五万円で百坪、八五〇〇万円、永山周辺で、ということを決めたが、結局、坪八十四万円、約一二〇坪、一億円ということになり、予想以上の好条件の土地を入手することになった。

 これは、今の私たちにとって可能性ギリギリの数字である。しかし、この決定に至る経過をふりかえると聖霊の不思議な御導きがあったことを信じないではおれない。当初、「高嶺の花」として見送った物件が今、私たちのものになろうとしている。しかし、これは私たちにとって大冒険への出発を意味している。

 冒頭のパウロの言葉に、「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。」とある。元バーゼル大学神学部教授のヤン・ミリチ・ロッホマン氏は、このことについて、次のように語っている。

 「万物のうめきと不安を思いながらパウロが勇敢に証言した狼狽と希望は、今や私たちの個人的な危急に向けて鋭い仕方で語られます。つまり、『同様に』と、パウロは語っております。神の創造的な霊が虚無に脅かされている被造物を希望に向けて輝かせるのと『同様に、しかし、"霊"は弱い私たちも助けてくださいます』。神の霊は、被造物の只中で、また被造物と共に、と同時に私たち人間と共に、いや――このように言うことが許されると思いますが――とりわけ私たち人間と共に、歩んでくださいます。こうして、このテキストは、私たち人間のことを考慮しているのです。」

この『しかし』という一つの小さな言葉によって、福音が想起されます。それは、ナザレのイエスにおける、隣人への志向という根本性質をもった、人間へと向かう神の道への福音です。しかも、それは、『もし』とか『だが、しかし』といった留保を抜きにした、弱い者たち・頼りない者たち、つまり失われた者たちへの神の道の福音でありました。『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』(ルカ福音書一九章一〇節)。」

これから、どんな困難や障害が待ち受けているか分からない。でも、この聖霊の「しかし」を信じて常に前向きに問題に取り組みたいと願っている。