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 「救いとは?」

     石川 和夫牧師

 「神はあなたがたを、救われるべき者の初穂として

お選びになったからです。」

(テサロニケの信徒への手紙一 二・一三)

 救われるべき者」とあるが、ここで言われる「救い」とは、何か?まず、広辞苑で調べてみよう。

 ?すくうこと。たすけること。[―の手を差し伸べる]

 ?兵を出して救うこと。加勢。助勢

 ?希望や明るさを感じさせて気持ちをほっとさせる

  ことがら。[―のない話]

 ?キリスト教で、イエス・キリストの救済。」

 広辞苑でも聖書で言われる「救い」は、一線を画しているようだが、「イエス・キリストの救済」とは、どういうことかは、全く分からない。では、聖書辞典を見てみよう。最新版の「新共同訳聖書辞典」 には、こう書かれている。

 「救いは、様々な不幸からの救いを意味し、

 個人的には病気(マタ九・二二、マコ三。四、ルカ六・一〇)、

 苦難(詩三四・七、ヨハ一二・二七)、

 天災(マタ八・二五、一四・三〇)などからの救い、

 国家的には外国の侵略からの救いを指した(士二・一六、申二〇・四)。

 旧約においては、救いとは出エジプトの事実であった(出一四・一三、三〇)。来るべき救いについては、旧約ではメシアを通して神の国の確立によって来るものとされ、罪からの救いは苦難の僕を通して実現するとされた。この救いは、神から来るものとして待望された(詩三・九)。この救いは、旧約に(イザ四五・二二)、また新約全体に描かれている(ヨハ三・一七、テト三・六、一ヨハ四・一四)。

これは明確に、

 罪からの(マタ一・二一、ルカ一・七七、七・五〇、使五・三一、エフェ二・五、一テモ一・一五)、

 断罪からの(ヨハ三・一七、一二・四七)、

 神の怒りからの(ロマ五・九、一テサ五・九)、

 滅亡からの救いであった(マタ一六・二五、一コリ一・一八)。

 これは神の恵みにより(使一五・一一、エフェ二・八)、

 宣教によって告げ知らされ(一コリ一・二一)、

 主イエスの御名において(使四・一二)、

 キリストを通して(一テサ五・九、一テモ一・一五、二テモ二・一〇)、

 信仰によって受け取られる(ロマ一・一六、エフェ二・八)。」(二六七頁)

これも概念としては、間違いないが、一体どういうことなのか、よく分からない。そこで、マスコミの人たちがよく言うように、一言で、言ってみよう。

「救いとは、気づくこと」

 そのことについて、私は曹洞宗のさんの言葉を思い出す。

 道元さんの歌に

  春は花

  夏ほととぎす

  秋は月

  冬雪さえて涼しかりけり

という歌がある。この歌は川端康成さんがノーベル賞をもらった記念講演で引用して有名になった。

 それから一般の人は、その歌を『美しい日本の自然』という意味に受け取っておる。だが、そうではない。その歌は実は『本来の面目』という題なのだ。天地のものは様相が全部違っており、しかもそれぞれが絶対の存在なのだという意味。

 この世界に人間の価値観は通じない。赤い花も黄色い花も、どれが良くてどれが悪いということはない。人間も頭が良かろうが悪かろうが、そのあるがままで絶対の存在だという安心の上に立てば楽になる。

 だが、競争社会ではそうはいかない。イワシの群れに『お前は一体どこ向いて泳いでいるのか』と聞くと『よう知らんからもっと偉いやつに聞け』と言う。少し偉いやつに聞いても『俺も知らん』。一番偉いやつも『俺も知らん』…。それと同じこっちゃ。人間もどこ向いて行くのやらわけが分からないままアップアップしている。そのくせ、他人を蹴ばして浮かび上がろうとする。そんなことせんでも人間は過不足ない存在だと分かっていない。

 釈尊が悟りを開いたとき『我と大地有情と同時に成道せり』という言葉を発した。『同時に』というのは『いつでも』ということ。過去現在未来いつでも成道すということは、過不足なくそこにあるということに気づくということじゃね。任巌は生まれたまま過不足なくそこにある。ところが人は過不足ないどころか、足らん、足らんばかりで生きている。」(「名僧いんたびゅう」、産経新聞社、一九九三年、二一八、二一九頁)

 あのペンテコステ(聖霊降臨日)のイエスの弟子たちの劇的な回心は、使徒言行録二章に神話的に表現されているが、要するに「俺たち、みんな同じ罪人、同じイエスへの裏切り者、そして、イエスに赦され、愛されている者」ということに気づいた、ということに他ならない。

 イエスの「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉も子供のようにサッと気持ちを切り替えるということを説かれたのではないだろうか。子供は「今、泣いたカラスが、もう笑ろうた」ということが出来る。泣くほどの哀しい経験をしたのに、次に嬉しいことがあれば、素直にそれに気づいて反応できる。大人は、メンツとか、悔しさに捕らわれているから、素直に切り替えられない。イエスは、子供をお手本にせよ、と言っておられる。

 今まで見ていたこと、経験したことが当たり前と思っていたのは、あるとき、ふっとこれはすごいことなんだ、と気づくこと。これを仏教では、「不可思議」とか、「不思議」と言うのだそうだが、これは、私たちに思い計らうことができないという意味で、この宇宙というものの不思議をしっかり感じることに他ならない。

 良寛さんの有名な漢詩の一つに、

 花は無心に蝶を招き

 蝶は無心に花を尋ぬ。

 花開くとき蝶来たり

 蝶来たるとき花開く

というのがある。読み方によっては、「当たり前じゃないか」と思うかも知れないが、良寛さんにとっては、自分の生き方を教えてくれるすばらしい発見、気づきだったのだ。遥か昔の旧約の詩人は、こう歌っている。

「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。

 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。

 話すことも、語るこ ともなく

 声は聞こえなくても その響きは全地に

 その言葉は世界の果 てに向かう。」

(詩編一九編)