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「民の共同のわざ」としての礼拝

石川 和夫牧師

 「いま、守っている礼拝にあなたは満足していますか。他にどんな人たちが満足していると思いますか。その人たちは今の礼拝のどういったところに満足しているのでしょうか。逆に満足していない人がいるとしたら、それはどういう人たちで、どうして満足していないのでしょうか。私は日本のミサを寂しいと思いますが、みなさんはいかがでしょうか。」

 「礼拝と音楽」一〇二号、(一九九九年夏)に掲載されていた南山大学教授、ヤン・スィゲドー神父のことばである。日本の教会の礼拝(ミサ)が寂しいという印象を与えている原因は、色々あると思うが、その一つに、「荘厳、厳粛な礼拝」というイメージが固定してしまった、ということが挙げられるだろう。もちろん、聖なる神との出会いであるから、「荘厳、厳粛」でなくていい、とは言えないが、例えば、かつて聞いたことがあるように、礼拝が始まれば、少なくとも、祈祷の最中は、出入りを禁じる、というようなことは、我々の常識になっているかも知れないが、それは、誰かを排除する、ということにもなっている。「荘厳、厳粛」ということ自体、「近寄りがたい」ことを意味している。

 ドイツの世界的神学者、ユルゲン・モルトマン博士が、「新しいライフスタイル」(新教新書二四八)の 中で、こう言っている、

 『キリスト者やキリスト教的諸価値の現実を、重荷として感じないためには人は相当鈍感でなくてはならない。その重荷は、本来のお祭り気分を、吹きとばしてしまうものである……祝祭はきわめて異教的なものである。』と、フリードリヒ・ニーチェは、前世紀の終わりに申しました。牧師の息子として、彼は、経験から語ったに違いありません。今日でも、人が礼拝に訪れる時、しばしばお祭り気分は「消し飛ぶ」でしょう。……わたしたちは子供の時、「神を恐れること」を教えられました。「神を楽しむ」どころではありません。わたしたちは教会で、静かにすわっていなければなりませんでしたし、両親の監督のもとにおかれていました。……礼拝は実際、楽しむどころのさわぎではありませんでした。神はこわいお方だ!……わたしたちの礼拝には、どこに聖霊の喜びがあっただろうか。福音の解放の響きは、どこにあっただろうか?神の現臨の経験は、この世界において、喜ばしい事態ではないのだろうか?キリスト教礼拝は、復活の祝祭ではないのだろうか?――それなのになぜ、わたしたちの礼拝は、天と地、魂とからだ、個人と教会の、解放の祝祭ではなく、また、「神にある地上の楽しみ」ではないのだろうか? わたしたちの礼拝は、何か間違っているのか、それとも、祝祭は「きわめて異郷的なもの」にすぎないのか?」(前掲書、九〇、九一頁)。

「お客様」から「参加者」へ

 どうして、こうなってしまったかは、先月の月報に紹介した長久牧師の言葉であきらかであろう。要 するに、礼拝に出席することが、「説教(みことば)を聞きに行く」ことになっているからである。長久牧師が指摘しておられるように、「そこでは一同は、演劇を見るのでなく、自ら演台に登って演技するものとなる。かくして共同的、能動的礼拝が実現」しなければならない。前東北学院大学教授の森野善右衛門牧師は、「礼拝への招き」(新教出版社)という本の中の礼拝診断という項目で、こう述べている。

 「礼拝の出席者は誰でも、単なる観客としてではなく、その礼拝への共同の参加者として招かれている。われわれの礼拝を内容的に力ある充実したものとする一つのてだては、礼拝出席者を「お客様」から主体的、責任的な「参加者」へと変えること、その参加度を高めることである。礼拝が牧師や説教者の独壇場に終わってはいないか、司会者の独裁にゆだねられてはいないかどうかを反省してみる必要がある。礼拝を真に生き生きしたものにするためには、礼拝出席者ひとりひとりにその責任があるのであり、そのためには、礼拝の守り方、あり方について、出席者のすべてがその責任を分担し、共感をもって出席できるような礼拝にして行くための、さまざまの検討と工夫が必要とされよう。」(前掲書、一二一頁)

 「初代教会においては、信徒すべてが神の民の不可欠のメンバーとして(万人祭司)、礼拝を構成し参与していた。礼拝(レイトゥルギア)はその言葉通り、「人びとのなすわざ」であったのである。礼拝の主役は聖(教)職者ではなく、キリストの祭司としての全信徒であった。

 中世カトリック教会によって、聖職者中心となり、位階制度(ヒエラルキー)の表現となった礼拝を、もう一度聖書に照らして刷新し、信徒ひとりひとりが聖書を読み、神の前に良心をもって立ち、キリストの和解の使者(?コリント五・二〇)として、つまり礼拝を構成する真の主役として参加できるような「民の共同のわざ」として礼拝を理解し、全信徒が神の民として平等に、そして共同で礼拝をつくって行くことが、宗教改革以後のプロテスタント教会の礼拝改革において大切なこととされた。

 神への讃美は、聖歌隊だけでなく、全会衆が共に歌うことが基本であるように改められた。信徒の陪餐はパンだけに限られていたのを改めて、初代教会以来の伝統が回復され、会衆一同がパンとぶどう酒にあずかることができるようになった。」(前掲書、一九八、一九九頁)

「先生」と「生徒」の関係ではなく

 礼拝は、「聖書に示された神と神の民である教会とが公に全体として会見すること」(キリスト教礼拝辞典、三七五頁)である。そこでは、牧師も信徒も同じ「神の民」の一員であって、先生と生徒の関係ではないはずである。しかし、従来の説教中心の礼拝では、誰がどう言おうとも、牧師と信徒の関係は、「先生と生徒」となってしまう。それは、学校であって、キリストがかしらである教会ではない。学校ならば、先生次第という面は免れない。現実のほとんどの教会が、「牧師次第」となっているのは、教会ではなく、学校になってしまっているからではないのか?

 牧師は、どうでもいい、とか、説教が、どうでもいい、ということではない。もっとも、厳密な意味で、説教が無くても、礼拝は成り立ち得るが……。要するに、礼拝は、神の「民の共同のわざ」なのである。その点で、現在の説教中心スタイルの礼拝は、信徒が、賛美歌を歌う時、主の祈りを祈る、献金を集め、感謝の祈りを捧げる時以外は、「お客様」である。これでは、信仰が受け身、消極的になって、当然であろう。しかも、それらの役割は、牧師の補助的なものと受け止められるから、「先生と生徒」の関係は、保持され続ける。

会衆全体のダイナミックな礼拝

 「民の共同のわざ」としての礼拝を実現しようとする試みが、式文による礼拝である。昨年の試みの折りに発行された「式文による礼拝について」に、「会衆全体のダイナミックな礼拝」の目標として、次の八つの項目が挙げられている。

一、交互性であらわす公同性と対話性

  神からの語りかけと、神の民の応答と

  いう形の尊重。

二、会衆も祭司として参与する(礼拝のお客様にな

  らない)

リタニー(交祷・連祷)の採用によって、一方通行型ではなく、交互型で会衆参加の場を持つ。

三、キリストの教会の歴史と伝統の尊重(使徒信条、交読詩編)

  教会暦による聖書日課によって、他の教会と連帯。

四、旧新約聖書の尊重

  旧約書、使徒書、福音書のすべてから、その主日に語りかけられる神の言葉を聞く。聖書から、神の言葉を聞く姿勢の 尊重。  

五、説教だけに依存しない礼拝

  礼拝のあらゆる部分において、主体的に、神の言葉を聞き、復活の主キリストに出会う。

六、聖餐と交わりの尊重

  初代教会の礼拝の中心であった聖餐において、キリストとの深い交わりを経験する。

七、礼拝のリズムの尊重

 バラエティに富んだ形式によって、礼拝全体の流れが単調にならないようにする。

八、新来者にも参加しやすく

  式文をみることによって、新来者だけではなく、子どもたちが阻害されない。献金の祈りも、式文によれば、教会員の誰も が参加できる。

愛に始まり、愛に終わる礼拝

 以上、式文による礼拝の目指していることを述べたが、最後に、「民の共同のわざ」としての礼拝の究極の目的は、「愛」だということを確認しておきたい。「民」というとき、会衆全体を指すことは、言うまでもないが、さらに根本的に重要な意味が込められている。それは、当然のことであるが、「神の民」ということである。なぜ、「神の民」と呼ばれるか?神の創造の業に参与することが期待されているからであろう。神の民の先祖であるアブラハムは、父の家のあるハランから出発すべきことを命じられたとき、明確にその使命が示された。全世界の「祝福の源」となるためである。これをとっても単純に表現すると、「愛」の伝達者となることである。その「愛」は、人間に対するものばかりではなく、自然、地球すべてのいのちにたいする「愛」と言って良いだろう。   

 礼拝は、「神の民」の使命の再確認の時でもある。従って、礼拝に共通する基本的な流れは、次の三つになる。

一、愛において、ざんげする。

二、愛において(キリストを通して)赦される

三、愛に向けて、出発する。

こうして、週日の歩みの基本が「愛」であり続けこととなる。そして、パウロと共に、こう讃美できる者となるのである。

「わたしは確信しています。………他のどんな被造物も、

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、

わたしたちを引き離すことはできないのです。」

(ローマ八・三八、三九)