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メシアに何を期待するか

石川和夫牧師

そこでイエスがお尋ねになった。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

(マルコによる福音書8章29節)

 新共同訳新約聖書の中見出しが「ペトロ、信仰を言い表わす」となっています。イエス様が弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになったその途中での出来事です。

 ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の西北部をフィリポ・カイサリア地方といいます。(地図付き聖書 マカベア時代のパレスチナ地図参照)この地方に多産の神、パンの神殿がありました。その近くにヘロデ大王が当時のローマ皇帝アウグストゥスにちなんだ神殿を作りましたので、この地方の呼び方を「カイサリア」としました。地中海沿岸にも「カイサリヤ」という地名がありますので、これと区別するために、ヘロデ大王のあとを継いだ息子フィリポの名前をかぶせて、「フィリポ・カイサリア」と呼ぶようになりました。

 このとき、イエス様が、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8章27節)と弟子たちに尋ねました。弟子たちが人々の風評を伝えると、今度は弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになります。これに対して、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたは、メシアです」と答えました(8章29節)。

 マタイによる福音書では、この答えをイエス様がとても喜ばれたと書いています(マタイによる福音書16章13節〜19節)。マルコによる福音書では、喜ばれたと書いてはなく、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と書いてあります。更に、この後には「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタンよ、引き下がれ」と書いてあります(8章33節)。

 「あなたは、メシアです」とペトロは告白したのですけれども、この答えは不十分だということで叱られたのです。ペトロを含めて、弟子たちは何もわかっていなかったのです。ですから、イエス様は「ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(8章30節)となるのです。他の福音書では、弟子たちがイエス様をメシアと呼ぶと、世の人々がローマ軍から開放してくれるメシアだと誤解するので、それを避けて、こう言われたと解釈しているようです。

メシアとは?

 ペトロと弟子たちは、イエス様の十字架と復活の後で、イエス様が本物のメシアであると分かりました。メシアとは何でしょうか。「メシア」と訳されている言葉は、ギリシャ語では、「クリストス」という言葉です。この言葉は、新共同訳新約聖書では、二通りの使い方がされています。「クリストス」が、固有名詞として使われているときには、「キリスト」となります。称号で使われているときには、「メシア」と訳されています。ですから、「メシア」と書いてあれば、「クリストス」と同じ意味になります。

 弟子たちを含んだその当時の人々は、「メシア」をローマの圧制から救い出すダビデ家の血筋をもった救世主と考えていたようです。ダビデ王の再来、強い王様が現れてくれることを期待していました。弟子たちは、イエス様の言動を見て、この方なら力がある、民衆にも評判が良い、だからローマの圧制から救ってくれて、ダビデの王国を再現してくれるだろうと期待していました。現代的な言い方ですと、先物買いです。イエス様に気に入られ、将来王国を築いたら自分たちを功績者として偉い役職に就けてもらおうと思っていたと解釈される場面もありました。このような理解でメシアですと言ったのかもしれません。

 「メシア」という言葉は、旧約時代から色々な理解を伴っていました。もともとは、「油注がれたもの」という意味で、神様に代わって大事なことをする人を指す普通名詞の称号だったのです。大事なこととは、神様に代わって統治する王、神様に代わって裁く裁判官としての王、神様に代わって語る預言者、神様と人との間をとりなして、人の罪を赦す役としての祭司です。王、預言者、祭司のことを「メシア」(マーシアッハ)と呼んでいました。

メシアとされている主の民

主は油注がれた者の力、その砦、救い。

お救いください、あなたの民を。

祝福してください、あなたの嗣業の民を。

とこしえに彼らを導き養ってください。

(詩篇28篇 8〜9節)

 詩編28編では、油注がれたあなたの民(イスラエルの民)を「メシア」と呼んでいます。イザヤ書45章1節には、異教徒であるペルシャのキュロス王が、バビロンにとらわれていたイスラエルの民を解放する「メシア」と呼ばれています。メシアの意味と内容は広いのです。共通していることは神様の御心を行った者であるということです。その典型的なものがイザヤ書61章1節です。

主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。

わたしを遣わして 貧しい人によい知らせを伝えさせるために。

打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を

つながれている人には開放を告知させるために。

主が恵みをお与えになる年

(イザヤ書61章1節〜2節)

 ルカによる福音書4章では、ここまでを引用し、この後の「わたしたちの神が報復される日を告知して・・・」は省いてあります。イエス様はこの役をする者だということです。捕われた者に自由を与えるという役です。この役割が「メシア」です。イエス様がわたしたちにとって「メシア」となってくださいましたが、イエス様にとらえられたわたしたちも同じように、「メシア」としての役割を担うように召されているのです。このことに目を注ぎたいと思います。

 ドイツの神学者モルトマンが、メシアについてこのように言っています。

メシア的時とは、神の今日のことです。今日とは、聖書の御言葉がわたしたちの耳に響き、イエスが私たちのもとへと来られることです(ユルゲン・モルトマン説教集「無力の力強さ」、新教出版社1998年4月25日、第1刷、128頁)。

 そして、わたしたちがイエスによって解き放たれる。あなたは自由です、神様に受け入れられています。あなたの罪はすべて許されています、だから、神様の使いをしなさい、まだ解放されていない人を解き放つ役をしなさいという意味です。

 更にこのように言っています。

 イエスの告知によって、「今日」この「主の恵の年」が到来します。それは、実際に実現し、すべての人が必要とする自由をもたらします。捕われた者が開放され、目の見えない人の目が開かれ、難聴者が聞こえるようになり、希望を失ったものが望みを見出し、瀕死の状態にある者が生気を取り戻すのです。この力、それが聖霊こそ命の力であり、創造の力であり、復活の力だからです。この聖霊とその力によって、私たちはイエスの使命の中に繰り返し、その、前ぶれとしるしを見ます。そこで私たちは、神の喜びの御言葉を聞き、悲しむ者は喜びを持ち、病む者は癒され、捕われた者は自由にされ、そこでこそ愛を経験し、聖霊の力を認めるのです。そこで、自由の祭りは始まります(前掲書、134頁)。

私たちも「メシア」!

 私たちは、イエス様によって解き放たれているから、今、こうして礼拝に招かれています。あなたは、すべてのことから解き放たれています、大丈夫です。だから、あなたの接する人に、この自由を取次いでください。私たちがメシアによって解放されたというだけではなくて、私たちにもメシアとしての役割が与えられています。

 今日の福音書に書かれているペトロは、まだこのことがよく分かっていませんでした。イエス様の復活の後には、しっかりとこの役割を果たしました。他の弟子たちも、この役割を果たしました。その後の聖徒たちもこの役を果たしてきました。私たちも、そのように招かれています。私たちに与えられている賜物はそれぞれ異なっています。それぞれに何かの形で、人々に仕えるように、自由の福音を伝えるように、召されています。

 姉妹教会であるホーリネス教団由木教会(http://www5f.biglobe.ne.jp/~yugi/)の小枝牧師が、ホームページに今から24年前の出来事を「愛と祈りにいきて」と題して書かれていますので、紹介します。登場される人の名前はAさん、Mさんとしています。80歳になるAさんが、心臓の病気で立川の病院に入院した時からの抜粋です。

 数日して、Aさんのとなりのベッドに入院してきたのが70才を越したMさんでした。彼女は夫を通してうつされた梅毒菌が全身にまわって、Aさんの言葉によれば<手足は腐れ果て、かろうじて切断をまぬかれている状態>でした。なんとも気の毒な人生と言うほかはありません。そして身体以上に、心は病んでいました。自分の生い立ちを呪い、夫を憎み、幸福そうに生きている周囲のすべての人生を恨むしか、生きるすべはなかったのです。Aさんの伝道者としての最後の働きが始まりました。となりのベッドに移されたこの悲惨な女性のために必死に祈り始めたのです。やさしい言葉を投げかけ、お菓子やおいしいものがあれば分けてあげました。しかしいつも返ってくるのは野獣のような言葉だけでした。このひとは他人からやさしくされた経験がなかったかも知れません。どう対応してよいか分からずにいたのかも知れません。長年悲惨な環境におかれた老人が、一挙に優しさを取り戻すことなど不可能にちかいことです。でもAさんは必死に祈りました。そして返ってくる怒りと憎悪の二倍の愛を、AさんはMさんに注いだのです。そして、やがて、Mさんの心が変えられる日が来たのです。Mさんはキリストを信じる決心をしたのです。Aさんは和装用の美しい草履をMさんにプレゼントして、こう言いました。「Mさん、これは私が教会に行くためにとってある草履です。これを差し上げます。これを履いて、あなたは天国に行くのですよ。」「もったいない。履かせていただきます。」その二日後に、Mさんは地上の人生を終えたのです。これは私がAさんから直接伺った真実のストーリーです。人生の最終点でMさんは真の愛を知ったのです。けわしい憎悪と、呪に駆られていた彼女の顔は、平安と感謝の表情に変わったのです。しかしこのことが起こって、数週間後にAさんも、地上の生涯を終えたのでした。

 みごとに、メシアの役割を果たしたAさんでした。これは、典型的な例です。わたしたちがメシアの役割を果たすためには、まず他者に仕えること、受け入れることからスタートしましょう。そこから聖霊が働き出します。わたしたちもメシアの一人として召されているということを忘れないで、与えられた命を大切にするのだということをお伝えします。

 祈りましょう。

 主イエスキリストの父なる神様。私たちは、自分のことばかりに心を奪われがちでした。あなたは自由を求め、助けを願っている人々を私たちに出会わせようとなさっています。そのときに私たちが、適切に仕えることができますように。あなたは、私たちに必要なものをすべてくださっています。時と、所に応じて、私たちの特性を十分に表して、お仕えすることができるようにお助けください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン