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聞く耳のあるもの

石川 和夫牧師

そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

(マルコによる福音書4章9節)

 キリスト教は、「性悪説」に立っていると思われがちだと思います。すべての人は、罪人であるとか、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている、と聖書で言われていること(ローマの信徒への手紙3章23節)から、本来、人間は生まれつき悪いというように。それを助長しているのは、人間は、罪を負って生まれてきているという「原罪説」です。

 わたしは、そうではなくて、聖書が伝えているのは、人間は、善なるものなのだという「性善説」に立っていると思います。旧約聖書、創世記の創造物語は、神が創造されたすべてのものをご覧になって、極めて良かったと語っています(創世記1章31節)。

 人は、善悪の知識を食べたために、神様の前に見当はずれの存在になったと語っています(創世記3章)。神はそれを食べると死ぬぞと警告なされましたが、アダムとエバが蛇にそそのかされて食べてしまっても、決して殺していません。楽園からは追放されたのですが、ちゃんと守っていらっしゃいます(創世記4章)。ノアの箱舟の物語では、もう二度と滅ぼすことはしないと約束されました(創世記9章9〜17節)。

 人間は、本来、神がお造りになって、神に良しとされた神の子なのです。だけど、善悪の知識が邪魔をして、神様の前に、見当はずれの判断をしたり、行動を起こすようになりました。このような見当はずれの判断と行動をキリスト教では、「罪」と訳したために、正邪善悪にとらわれる道徳的な宗教となってしまったと思います。何々をしなければいけないとか、してはいけないとかの戒律的様相を帯びてしまいました。仏教的な言葉で言えば、「業」、「人間の癖」、と考えたほうがよいと思います。

 今日のテキストの「種を蒔く人」のたとえは、大変有名な箇所です。少し、教会に通われた方なら、よく聞かされている物語です。わたしは、このたとえの「良い地」を、神の言葉を素直になってよく聞く姿勢ですよ、そうすると実りますよと道徳的にお話ししていた時期がありました。しかし、わたしは、自分でもそのように努力したつもりですが、実りがあった実感がしませんでした。なぜなのでしょう。

当時の種まきの仕方

 わたしたちは、種蒔きというと、きれいに整地された畝に種を蒔くことを想像しますので、この物語がぴんときません。この物語を理解するには、この時代の農作業環境を知る必要があります。もう天上の人となられた清水恵三先生の「イエスさまのたとえ話」に書かれていることを紹介しましょう。

 当時のその地方の種まきは、私どもの種まきと非常に違った面がありました。まず農業の形態からして、日本が中耕除草型であるのに対し、パレスティナ地方は、大きく地中海農耕文化に含まれる休閑保水型であることに気づきます。

 現在この地方では谷川や井戸などのよる灌漑が行われ、休閑除草型の農業に変わっていますが、当時は灌漑なしに保水が行われていました。冬期の雨と夏期の乾燥にそのまま合わせたのです。従ってムギやエンドウやビートなど、冬に成長する植物が中心になります。

 種まきの前に耕すことがあっても、浅くしか耕しません。地中の水分が蒸発しないように、つまり、毛細管現象を断つための耕転です。そのあとで地上に種をばらまいて上部を鋤き返します。種は地中の水分で蒸発しますが、やがて冬になり雨が降って、十分な成長をし、春5月頃に実るのです。(清水恵三「イエスさまのたとえ話」、日本YMCA同盟出版部、1982年12月1日、初版、36頁)

 4月から5月の乾季がペンテコステ(収穫の祭り)収穫のときです。乾季に入り、栽培不可能になるので収穫した後はそのまま放置します。土地は乾燥し、堅い地面となります。堅い地面の上に、近道をするための道が出来ます。この様な状態で次の雨季を迎えるわけです。雨季の前の固い地面の上に、おおざっぱに種を蒔きます。蒔いた後、地面からの水分蒸発を抑えるために浅く耕します。この様な状態ですので、ある種は、道端に落ち、ある種は、堅い石地の上に落ちます。イエス様がお話したこのたとえ話の状態は当時、聞いている人にはすぐに、そうだ、そうだと、よく分かる話でした。でも、結びの部分が分かりにくいのです。

良い土地とは?

そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

(マルコによる福音書 4章 9節)

 これを読みますと、禅宗のお坊さんの話を思い出します。禅では、自分で悟りなさい、気づきなさいという意味で、ぽんと突き放したような問答の仕方があります。お父さんが、妙心寺の住職で、たいへん著名な松原泰道さんの、松原哲明さんという、辻説法南無の会の副総裁の方がいらっしゃいます。NHKテレビ「宗教の時間」で般若心経のお話しをされたものが本になっているのですが、その中で、江戸時代の名僧盤珪禅師(妙心寺住職)の言葉に触れています。

 この話を要約してみます。

 禅は心を大切にします。心に気づくことが大切なのです。心とは鏡のようなものです。般若心経に、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」という言葉があります。生まれず、滅びず、穢れず、清められず、増えも減りもしないという意味です。これは鏡と同じです。たとえば、馬の糞を鏡は映します。でも、鏡自身は、それで汚れるわけではありません。何かが起こるわけではありません。また、きれいな花を映します。きれいになったつもりになっても、鏡が変わったわけではありません。この様なことに気づくことが大切です。自分の心が見当外れな事を考えていることに気づくことが大切なのです。このことに気づけば仏になります。自分も、他人も仏に見えてきます。仏になれば楽になります。このままでいいのだ。何をしなければいけないと、がたがたする必要はないのです。ということです。

 このお話で分かったことは、良い地とは、わたしたち造られたままの本来の姿、皆な良い地だ、皆な神の子だということです。良い信者になろうとか、偉くなろうとする必要はありません。皆それぞれ、そのままなのだから、別に、どのようになる必要もありません。生まれもせず、滅びもしないのですから。あなたがたは神の子、良い地です。そのことに気づいたら、必ずたくさんの実りがでてきます。この当時、実は良くて二十倍ほどです。イエスさまが「三十倍、六十倍、あるものは百倍」とおっしゃったことは、非常に大きな数です。このようになるのです。実りとは、自分のことに気づいた心の豊かさでもあるのです。

心は鏡のようなもの

 柳沢桂子さんという生命科学者がおられます。多摩市桜ヶ丘にお住まいの方です。一ミリにも足りない細胞から一人の人間が生まれるということはとても不思議なことだと言っておられます。何か、偉大なもの(サムシング グレート)が存在するのだろうと言っています。彼女は、難病で苦しんでおられますが、その治療を続けながら、「般若心経の心訳」という解説書を出版しておられ、これが、たいへんなベストデラーになっています。

 先日の日帰り修養会のときに、彼女のビデオを見ました。そのときに印象に残ったお話です。

 車椅子で外に出かけたとき、上品な年配の婦人が、「おたいへんですね」と丁寧に声をかけて、通り過ぎました。そのとき、彼女は、哀れみを受けたと、嫌な気持ちを感じ、それを引きずって、落ち込みました。ですが、そのあと、「あっ、自分でそう思っただけ、鏡なんだ、そのままで良いのだ」と気づき、この問題から離れられ、うれしくなりました。あちらが善意で言ったことを、どうして、いじけて受け取るのだろう。受け取った自分が情けないと考えるのではなく、また、良いとか悪いとかにとらわれるのでもなく、「あぁ、見当違いをしているのだ」と気づくことにより、豊かな気持ちなったということです。

 わたしは、このようなことをうまく説明しようとすると、うまく説明できなくて、じれったくなります。イエス様 もうまく説明しにくいところを、まるで投げ出したような言い方、「聞く耳のある者は聞きなさい」(分かる人しか分からないでしょう)と、おっしゃったのでしょうか。

 聖書を読んでいて、分かりにくいなと引っかかったところを、正直に、素直に受け止めること、このことはとても大事なことです。おかしいな、わかりにくいな、というところには、必ず、大事な意味が隠されています。こんなことが分からないでと、あきらめるのではなく、すぐに答えを見つけようとせずに、じっくり待ちましょう。ダメだ、と結論をつけないで、「分かりにくいな」という思いをそのまま残しておくと、いつか必ず分かるときが来ます。聖書はほんとにすごいなと思うときがきます。

 「聞く耳があるもの・・」、わたしたちには聞く耳があります。駄目信者とか思わないでください。神様はそのようには、思っていません。「頼んだぞ」とお招きになっています。感謝して生きたいと思います。

 お祈りします。

 天のお父様。今日もお招きくださって本当にありがとうございました。自分のプライドや欲に囚われて見当違いの判断をしたり、言葉を出したりします。人を責めたくなったり、不愉快になったりします。あなたがわたしたちを清らかな神の子としてお造り下さったのですから、そこに、いつでも戻っていき。互いを受け入れあっていくことが出来るようにお助けください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2006年2月12日、降誕節第8主日、第二礼拝説教)