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これがその人だ

石川 和夫牧師

主は言われた。

「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

(サムエル記上16:12)

今日の主題は、「王の職務」となっております。ダビデが、どのようにして王となるべく選ばれたか、という旧約聖書箇所がテキストになっていますが、王の職務が、どのようなものかは書かれていません。

 今日の使徒書、テモテへの手紙には、

「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、

誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

(テモテへの手紙一 1章17節)

と書かれています。

 ここでいう「永遠の王」とは、神をあらわしています。両方のテキストから示されることは、神がわたしたちをお選びになる理由は、わたしたちが考えている価値観をはるかに超えているということです。

 福音書のテキストは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれている、富める青年のはなしです。マタイ、ルカには書かれてなくて、マルコだけに書かれている言葉があります。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。---(マルコによる福音書 10章21節)

 という言葉です。この言葉により、富める青年が、いかに真剣に、まじめにイエス様に質問したか、ということが分かります。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

(マルコによる福音書 10章17節)

 「善い先生」という呼びかけの言葉は、目上の先生に、真理を質問する時の、当時の礼儀だったのです。彼が礼儀にかない、丁寧に、イエス様に質問したにもかかわらず、

「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」

(マルコによる福音書 10章18節)

と、揚げ足取りと思われるようなイエス様の返事が返ってきました。イエス様の価値観は、わたしたちが考える善悪の価値観を乗り越えたものでした。究極的に、何が「善い」か、ということは、神様以外には分かりませんので、たとえ挨拶の言葉であったとしても、「善い」という言葉を聞くだけで、敏感に反応されて、なぜ、わたしに向かって「善い」と言うのかと答えられたと思います。「善いということについては、すべて聖書に書かれている」とも、お答えになりました。青年は、

「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。

(マルコによる福音書 10章20節)

と言いました。この答えを聞いて、イエス様は、彼を見つめ、慈しんで、

「そうか、お前はそれほど熱心に、一生懸命考えているのだね」

と言われたのでしょう。しかし、その次の答えは、非常に厳しいものでした。

イエス様の無茶な要求?

「あなたに欠けているものが一つある。

行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

たくさんの財産を持っていたからである。

(マルコによる福音書16章21,22節)

 「もし、本当にあなたの願いどおりになりたいのなら、持っているもの全部を売り払いなさい。そして、わたしについてきなさい、このような無茶なことが出来ますか」というものです。一切を捨てなさいということです。

イエスは言われた。

「はっきり言っておく、わたしのためまた福音のために、

家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てたものはだれでも、---」

(マルコによる福音書 10章29節)

 誤解しないでいただきたいのですが、イエス様は、家族や財産はどうでもよい、とおしゃっているのではありません。自分にとってどんなに大事なものであっても、それだけが究極的な目的になったら、自分を見失い、いつまでたっても、これでよい、という安心感は得られません。

 人間が、自分の力だけで救いを獲得しようとしても、それは出来ないことなのです。すべてのものは、神様のものなのです。

 この富める青年が、まじめで、一生懸命なものですから、イエス様は彼を慈しんで、答えられたのですけれども、たしなめられたのは、一生懸命であれば、あるほど、見当違いの方向に行ってしまう人間的な限界でした。

 究極的な救いを自分で掴み取ろう、自分で何とかしなければと努力すればするほど、いつのまにか、自分の思い通りにならなくなり、欲求不満に陥ります。そして、それがいつまでも残ります。どこまでいっても、これでよいということがありません。

 戦後、日本人がずっと追求し、いまだに追及し続けていることに、体によいこと、蓄財によいこと等の「善いこと」追求があります。しかし、その結果は、これでよいのか、という不安とまだだめだ、という不満が残り続けます。本当に、落ち着きたかったら、神様のふところに飛び込むことしかありません。人間には、限界があります。自分では、これが最高だと思っても、神様から御覧になれば、それが「善い」か、どうかは、明らかではありません。イエス様が家族を捨てなさいと言われているのは、自分の力だけで愛そうとする思い上がりを捨てなさい、と言うことなのです。

既成概念や期待を捨てて

 預言者サムエルが、次の王として、ダビデを選ぶときの物語を見てみましょう。まず、初めにサムエルは自分の経験と、勘と、価値観で考えて、「この人だ」とエッサイの長男を選びました。長男はとても素敵な人だったようです。

しかし、主はサムエルに言われた。

「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。

人間が見るようには見ない。

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

(サムエル記上16章7節)

でも、神様は違うといわれました。その後、成年に達していた兄弟たちみんなを見ましたが、選べませんでした。犠牲の食事の宴会でのことだったので、成年とみなされなかったダビデ少年は、当然、宴会には出られないで、羊の番をしていました。サムエルは、成年から選ぶという常識を持っていたようです。わたしたちも常識に縛られ、適切な判断が下せないときがあります。

エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。

彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。

主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

(同上16章12節)

 常識外の者を神様は選ばれました。わたしたちが最善と思ったものでも、神様がお決めになるときはそれを超えています。そのことを分かりなさい、と今日のテキストは教えていると思います。イエス様が一見、滅茶苦茶なことをいっているように見えるのですが、「一度、自分の価値観を一切捨てて、見直しなさい」と勧めておられるのです。「神様にしか、本当に良いことは分からない」のですから、自分の持っている期待や願いを一度、手放してみてください。そうすると、思いがけない形で答えが返ってきます。わたしたちは、願いや期待、欲を手放しきれないでいるので、ぐらぐらしていつも不安で、物足りない状態のままでいます。

平静、湖面のごとき安らぎ

 ドイツ文学で有名な小塩節先生のお父さんで小塩力牧師という方がいらっしゃいます。力牧師の奥さん、つまり節先生のお母さんは、幼稚園の先生を長く勤められた方です。「おばあちゃんの八十のポケット」という本を出版されました。その中に出てくる話を紹介します。

 節先生が二歳、妹のあつみさんが生まれて八ヶ月の時に、お母さんは、ひどい乳腺炎の末に、敗血症という病気になりました。昔のことですからペニシリンのような有効な治療薬がなく、助かる見込みもなく、お医者さんにサジを投げられた状態になりました。三週間、水も飲めず、すりおろした梨のジュースだけで、命をつないでおられました。ご主人である力牧師が彼女の枕元で、医者の言葉を伝えました。

「九十八パーセントは死ぬそうだ」。奥さんは「子どもは?」と聞き返しました。

「任せなさい」、

「だれに?」

「主に」、

「死後の未来は?」

「任せなさい、主に」、

「どんな具合になるのでしょうか?」

「人間のわたしには、それは判らない。今までを導きたもうた主は、未来をまた、よきに導きたもうにちがいない。信じて任せなさい」、

「あなたが葬式をしてくださいますか?」

「してもいい。が止めよう。乱れると、見苦しい。」

 この会話の後、奥さんは、このように書いています。

 夫というよりも、純然たる牧師を感じました。私はその宣告を受けた一瞬から、不思議に平静、湖面のごとき安らぎを得ました。(左近淑「時を生きる―現代に語りかける旧約聖書」、ヨルダン社、1986年5月10日、初版)

 「神様、これでいいです」と、神様に無条件降伏した時に、鏡のような湖面の平静さが与えられたのです。これが、王である神様のなされる業です。

 奥さんの病気は治りその後、長生きされました。

 お祈りします。

 聖なる御神様。今日もわたしたちをお招きくださってありがとうございました。どうしても、自分の欲や、不安が先に立ってしまい、自分中心の期待や欲が出てしまいます。その期待が実現しないと苛立ち、また、投げやりになり勝ちでございました。しかし、すべての源はあなたでした。究極的に善いことをなさるのもあなたです。どうぞ、わたしたちの限りある判断が、あなたの前にいつも清められて、一切をお委ねする信仰において常に忠実でありますようにお守りください。このお祈りをイエスキリストの御名によってお捧げしたします。

アーメン。

(2005年11月20日、降誕前第5聖日 第二礼拝説教)