お話を読むライブラリーへ戻る トップページへ戻る

後でも先でも

石川 和夫牧師

わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。

それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。

(マタイによる福音書20:14,15)

 最近、わたしは久ぶりに、アニメ「魔女の宅急便」を見ました。六年前、わたしの孫がこのアニメに凝り、何度も繰り返し見ておりました。北海道への旅行をしたときにも、車の中で、繰り返し音楽を聞くものですから、すっかり覚えたつもりでした。懐かしいので、見直したのですが、あらためて見たら、こんなシーンもあったのか、あんなこともあったのかと、いかに忘れていることが多いのかに気付かされました。何度も見たから、全部覚えていると思っても、多くの見落としがあるものだと思いました。

 もし、自分の歴史を、全部ビデオで振り返って見ることが出来たら、あれ!こんな大事なときに、何をボヤッとしていたのだろうとか、こんなことがあったのか、これも気がつかなかったのかと、自分が覚えていることよりも、はるかに素晴らしく、良いことがたくさんあったはずです。そのようなことを見落としているのではないかと、つくづく思わされました。

 今日は、第31回永山教会創立記念日です。31年間の歴史を振り返ってみますと、大事なことを置いてきたり、忘れてはいけないことを忘れたり、色々なことがあったと思います。今日、ここで、わたしたちは、31年目の創立記念を祝うことが出来ました。

イエスのたとえ話

 教会のかしらであるキリストが、神の国へ、常に招いておられ、そのために、わたしたちが捉えられ、主に導かれ、今、ここにいることを、永山教会の歴史を通して、受け止めたいと思います。

 今日、与えられたテキストは、「ぶどう園の労働者」のたとえ話です。イエス様は、しばしば「天国は何々のようなものである」という言葉で始まる、たとえ話をされます。そして、そのイエス様の話は、とてもユニークです。二つの特徴があります。

 一つ目は、日常のこと、当時の庶民が身近に経験していることを通して話されるので、とても分かりやすい、という特徴です。今日のたとえ話では、当時、ローマに支配され、失業者があふれていた時代を反映している労働者の物語が登場します。五時頃になっても、仕事のない人がいた、というのは、当時の現実だったのでしょう。聞いている人たちが、「ああそうだ」と分かる題材を用いました。

 二つ目は、意外性です。一つ目の誰にも身近な話題を用いて、イエス様は、みんなに大事なことを気付かせようとして、「ぇっ」と驚く話を展開します。

 朝早くから来た者も、夕方五時に来た者も同じ労働賃金を貰いました。これは、人間の社会で通じることではありません。実際に、このようなことが起これば、すぐ、労働争議が起こったり、裁判沙汰になったりします。これが、人間の尺度です。

 このたとえ話は、神様の尺度は、人間の尺度とは、まったく違うのだということを示しています。イエス様は、このことを「ぇっ」という話で、気付かせようとされているのです。

天の国は次のようにたとえられる。

ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

(マタイによる福音書 20章 1節)

 ぶどう園の主人は、夜明けに出かけて行った、と書いてあります。「夜明けと共に労働者を探しに出かけた」と、何気なく書いてありますが、ここには、失われた羊を求めようとする神様の愛の匂いを感じないではおれません。

主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

(マタイによる福音書 20章 2節)

 この主人と同じように夜明けと共に出かけて、仕事を探している勤勉な人がいました。この人は主人に出会って、ぶどう園に行って、働くことが出来ました。

また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人がいたので、

『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

それで、その人たちは出かけて行った。

主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、

『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。

主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

(マタイによる福音書 20章 3節〜7節)

 もう仕事が始まっている、九時ごろに、主人は出かけましたが、まだ仕事に就けない人がいたので、その人も同じ約束で、ぶどう園に送りました。同じようにして、三時、五時と出かけて行き、同じ約束で、人々をぶどう園に送りました。

夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、

『労働者たちを呼んで、最後に来たものから始めて、

最初に来たものまで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。

しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。

『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。

まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

(マタイによる福音書 20章 8節〜12節)

 最初に声をかけられて、早くから働いた人たちが、文句を言いました。人よりも早く先に来て、汗水たらして、一所懸命に働いた、この人たちの言い分は、もっともです。一時間しか働かなかった人と同じ賃金だとは、あんまりではないですかと不平を言いました。その不平に対する主人の回答はこうでした。

主人はその一人に答えた。

『友よ、あなたに不当なことはしていない。

あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

自分の分を受け取って帰りなさい。

わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。

それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』

(マタイによる福音書 20章 13節〜15節)

 イエス様は、「わたしが与えるのだよ、あなたに対して、約束違反はしていませんよ。そのまま受け取って帰りなさい」と言いました。早くから来て、働いた人には、冷たいような言い方です。一方、神様は、五時まで仕事がなかった、今日も、一日駄目かとがっかりしている人たちの心の動きを全部受け止めておられました。その上、ぶどう園で働くように、招いてくださいました。十二時、三時に、招かれた人たちも、それぞれに、大きな報いがあったと思います。

人間の尺度、神の尺度

 「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と言いました。「わたしの気前のよさをねたむのか」とは、先にいる者に当てた皮肉でしょうか。先にいる者とは、誰なのでしょうか。

 神様は人間の尺度ではなくご自分の尺度で、造られたすべての人に対して恵みをたくさん与えたい、それぞれの人の、それぞれの状況の中で、早い人は早い人なりに、遅い人は遅い人なりに、全部同じように、報いてやりたいと思っておられます。イエス様は、神様の尺度は、人の尺度とは決定的に違うのだ、ということを肝に銘じなさいと言っているのです。これは、何とありがたいことでしょうか。

 この尺度を当てはめてみますと、不幸や、行き詰まりに出会うことは、神様の恵みに出会う、大事なチャンスなのだということが分かります。五時まで仕事がなかった人は、もうおしまいかな、と自分の不幸な運命を呪ったかもしれません。ところが、「さあ、行って働きなさい、同じ賃金ですよ」と言われて仕事が与えられたときの喜びは、どのように大きかったでしょうか。自分が今日一日、ぼっと立っていたのも、無駄ではなかったのだ。ぶどう園の主人に出会って、ほんとうによかったと思ったことでしょう。

 思うようにならないとか、不幸に出会ってしまうということは、私たちの尺度で言えば、避けたいことです。でも、神様の尺度で見たときには、大事な、すばらしい恵みに気がつくチャンスでもあるのです。人間の尺度で、困ったな、ついてないな、とふさぎこまないで、そこで、神様の尺度に切り替えてごらん、というのが、このテキストのメッセージです。

思い通りにならなくてよかった

 平和学園の校長先生を長くなさり、今は、今治教会の牧師をしていらっしゃる、榎本栄治先生は、「ちいろば先生」として有名な榎本保郎先生の弟さんです。高校生のとき、淡路島に居られた榎本栄治先生は交通事故で父を亡くされましたので、大学入試のために京都で牧師をしていたお兄さん(保郎先生)を頼り、居候しました。

 お兄さんは、超真面目な方です。毎朝五時、ベニヤ板一枚で仕切られた隣の部屋で、祈るお兄さんの大きな声の祈りを聞きながら、勉強しました。始めのうちは、「かなわないな、教会は住むところではないな」と思われたようです。受験に失敗し、浪人時代を何度も経験しました。大学に入学できて、アルバイトをしながら、勉強しているうちに、知らず知らずのうちに、お兄さんの感化を受けたのでしょう。牧師になりたいと思い、神学部3年生への編入試験を受けました。しかし、これも一度では、うまくいきませんでした。

 このように、先生が何かしようとすると、常に失敗が先行し、その失敗を繰り返し、やっと前進するという、人生だったようです。榎本栄治先生は、そのことを振り返って、このように言っています。

 それからも行き詰まりと、失敗ばかりの人生だが、そのつど、神様の方に目を向けられて今日まできている。(「神に呼ばれて」日本基督教団出版局、2003年3月24日、初版、222-223頁)

 失敗と行き詰まりは、神様の方へ目を向けるチャンスなのです。だから、恐れる必要はありません。いやではあるのですが、それは、素晴らしいことに向かうチャンスなのです。榎本先生は、続けてこう言っています。

 作家の三浦綾子さんは生前、私のことを「先生のことを見ていると、失敗を繰り返しながら上に導かれている。神様にすごくひいきにされていますね」と言ってくださった。その通りである。(前掲書、223頁)

 失敗と挫折の連続であったけれども、それを榎本栄治先生は、少なくとも恵みを得るチャンスに変えていました。いや、神様が必ず後で気づかせてくださっていたのです。だから、失敗と挫折を繰り返すとき、「なんと自分は、恵まれていたのだろう」と受け止めなおして歩む人を、側で見ている人は、「神様は、あなたをひいきしていますね」と受け止めるのです。

 榎本栄治先生は、失敗と挫折を、神様から恵まれるための大事な機会と受け止めました。わたしたちにも失敗、挫折、いやなことが起こります。でも、それは大事な恵みに気づかせようとして、神様が導いておられるチャンスなのです。このように、受け止めなおしたいと思います。

思い通りに行かぬことばかり

思い通りにならなくてよかった

思い通りになっていたら大変だった

神様の御心が一番

(前掲書、223頁)

 わたしたちも、礼拝の中で、誰の手の内にあるかを確かめることが出来ました。毎日を感謝しながら歩みましょう。

お祈りいたします。

 聖なる御神様、31年前に、あなたが、この地に永山教会を立てられ、今日まで来ることが出来たのは、色々な人たちの、色々な経験をあなたがお用いになって、あなたの恵みを知らせ、すべての人が、神さまの恵みに招かれていることを知らせるためでした。長い歴史の中で、行き届かなかったり、間違ったりしたこともあったかと思います。それにもかかわらず、あなたは、今日も豊かな恵みをもって、わたしたちを招いてくださいました。また、大きな祝福をもって、報いてくださることを覚えて感謝いたします。どうぞ、常に、あなたがすべてのことを恵みに変えようとして、招いておられることを、しっかりと受け止めて、歩んでゆくことができますように、お助けください。

 主イエスキリストの御名によって、御前にお捧げいたします。

 アーメン

(2005年9月18日 聖霊降臨節第19主日 礼拝説教より)